前日譚 参

 車が大きく揺れた。任務遂行後の身体に響いて、それがスイッチみたいに急に自分の疲れを自覚してしまった。車を運転してくれている伊地知さんが慌てて謝ってくれたけれどミラー越しに笑って私はポケットに入れていた箱の事を思い出す。

「そうだ、七海さん。これあげます」
「何ですか、これは」
「バームクーヘンです。パンダの形に切り抜けるんですよ。可愛くないですか?」
「バームクーヘンだということはパッケージを見ればわかります。私が聞いているのはそういう事ではありません。なぜ突然このようなものを渡したかという事です」

 もし私が明日死ぬなら、出来るだけ後悔は少ないほうがいいと思うから。そう言ったら七海さんは困ってしまうだろうか。私と違って疲れる様子を見せない七海さんをまじまじと見つめた。

「七海さんが好きだからですね」

 呆れた様子を見せながらもバームクーヘンの入った小さな箱を受け取った七海さんは仕方なさそうにそれを内ポケットにしまった。そこだけ明らかに突出してしまいちょっと不格好になってしまっている。

「すみません、1番小さいサイズを選んだんですけど」
「問題ありません」
「本当はハロウィンの時に渡そうかなって思ってたんですけど七海さん、トリックオアトリートなんて絶対に言ってくれないじゃないですか。私が言ってもポケットから飴かチョコ出して終わらせちゃいそうだし」
「私は飴もチョコレートも普段から持ち合わせていませんよ」
「さすがにハロウィンは持ってるかなって」
「持つわけないじゃないですか」
「そっか。じゃあ七海さん私がトリックオアトリートを言う用に用意しておいてください」

 七海さんは何も言わずに私を見た。瞳は優しかった。多分数秒。だけど私にはそれがとても長く感じて、この瞬間に感じた気持ちを何かに閉じ込められれば良いのにと願ってしまう。

「好きです、七海さん。私やっぱりどうしても七海さんのこと、大好きです」

 聞き慣れてたのか伊地知さんももう私の気持ちについて何も言うことはなくなった。伝えられる限りの声と行動で七海さんに私の気持ちを届けてきたけれど果たしてどれくらい伝わっただろうか。

「知ってますよ」

 声はひどく穏やかで、凪ぐような空気に私はちょっと泣きそうになってしまった。そうですか。知ってましたか。だからといって七海さんと私が恋人同士になることはないんだろうけど、泣きたい衝動を抑えて静まる夜が明けゆくのを私はじっと見つめるだけだった。

 そして10月31日、七海健人は呪術師としてこの世を去った。

(21.03.21)
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