ブルーマウンテン




「本日のコーヒーお願いします」

 赤らむ頬に視線を向けた。

「ホットですか?」
「はい」

 昨日まではなかったマフラーが首元を彩っている。質の良さそうなチャコールグレーのマフラーはこの人によく似合っていると思った。
 ついこの間やってきたと思っていた秋がいつの間にか終わろうとしていて、朝起きた時に出たくないと毛布の中に閉じこもる日が増えるのを実感すると、こうやって季節は移ろいゆくのだといつも知らしめられる。

「淹れ方はハンドドリップでよろしいですか?」
「それでお願いします」

 数え切れないほど同じやり取りをしているのにも関わらず、この人の名前は未だに知らない。
 背が高くて、顔が整ってて、日曜日は仕事が休みで、コーヒーはブラック。私が知っている名前の知らない常連さんの情報。指折り数えられる程度の顔見知り。

「今日は、寒いですね」

 今になってどうしてそんな事を言ったのか自分でもわからなかった。気泡が表面に浮かんでくるのを見つめながら、多分、朝の占いが一位だったからかな、と半ば強引に理由をつける。
 挽いたばかりの豆の深く苦い芳香はどこか懐かしさを孕んで鼻腔に届く。大人になればなるほど人はこの香りに恋をするんじゃないかな。きゅっと胸を締め付けるような香りは冬の始まりによく合っていた。

「寒いんで、今朝急いでマフラーを出しました」

 注ぐお湯の量とサーバーに落ちる量が同一であるように意識を保ちながら声にも耳を傾ける。凪ぐような落ち着いた声に軽やかな笑いが添えられてただ単純に「いいな」と思った。あ、この人こんな風に微笑むのか。

「わかります。私も最近朝布団から出るの辛くて。今からこんなだったら冬になったらどうなっちゃうんだろうって思います」

 サーバーにたまった一人分のコーヒーをテイクアウト用の紙コップに移す。トラベラーリッドとスリーブをつけて完成された本日のコーヒーを手渡すと、その人はお釣りのないようにお金を出して「あはは。お互い頑張って寒さ乗り越えましょう」と、優しく言うから。

(かっ……こいい……)

 ただただ単純にときめいて、私の一日が始まるのだった。






「ブレンドコーヒー一つ。ホットで」
「かしこまりました」

 客足は上々。経営はかろうじて黒字。誰かを雇う余裕はないけれど、一人でお店をまわしていく中で人手不足と思ったことはない。
 駅前のアーケードの商店街を進んで小道を曲がってすぐ、銀行の駐車場の向かいに私のお店はある。イートイン用の席が奥に二席あるだけの店内はお世辞にも広いとは言えないけれど私の城だ。
 開店当時、さすがに一人では自家焙煎をするだけの余力はないと生豆は置かなかったけれど、お気に入りの豆を取り扱ったラインナップが並ぶ棚を見ると幸せに浸れる。
 一杯のコーヒーを大切に。それを飲んでくれている時間がその人にとって幸せなものになりますように。そう願いを込めて淹れるコーヒーが、誰かの一日を彩れば良い。

(さて、お昼にするか)

 一日の中で最も忙しい時間を終え、私はようやくお昼にありつけた。自分でお弁当を作る日もあれば朝にコンビニやおにぎり屋さんでおにぎりを買う時もあるし、思い切って少しおしゃれなお店に行くこともある。
 今朝、駅にあるおにぎり屋さんで買った梅しらすのおにぎりを食べながら友達からきていたメッセージに目を通した。

『ねえ今日の夜ひま? 友達何人かでご飯行こうって約束してたんだけど一人来られなくなっちゃって。もし時間あったら来ない?』

 それがいわゆる合コンと呼ばれるものだということはすぐにわかった。文章の最後に頭を下げた絵文字があるその文に何度か目を通す。
 飛びつく理由もなければ、断る理由もない。どっちでも良いけど……と思いながら、断ったところで家に帰っても結局やることないしと快諾の旨を返信する。

「あ、でも……」

 今日別に気合いの入った服装もメイクもしてない。そう気がついたのは『ありがとう!』と返事がきた後で、せめてお店に行く前ちゃんと化粧直ししようと決意して私は残りのおにぎりを頬張るのだった。






「あ」

 その横顔を目に入れた瞬間そんな間抜けな声が出た。店内の騒音に埋もれて誰にも聞こえてはいなかったけれど、ひと目でわかった。ぞろぞろと連なって席までやってきた私達を男性陣はまじまじと見つめている中でその人だけは壁にあるメニュー表へ視線を向けていた。

(常連さんだ……)

 ほぼ毎朝、数え切れないほど同じやり取りをしているのにも関わらず未だに名前の知らない男の人。背が高くて、顔が整ってて、日曜日は仕事が休みで、コーヒーはブラック。
 こういう席にいるのが少し意外だ。まあ私には関係ないか。そう思ったけれど、私の視線はぶれることなくその人に向いていた。
 そして私達の中の誰かが発した「こんばんは、お疲れ様です」という言葉にこちらを向いた彼と目が合って、その人の口から「あ」と小さく放たれた言葉が喧騒の中、私の耳に届いたのだった。

(21.04.25)

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