グアテマラ




 目の前に座るその人をじっと見つめる。昼神幸郎。ずっと知り得なかったその名前をまさか合コンの席で知ることになるなんて誰が想像出来ただろうか。
 運ばれてきた生ビールを飲みながら、ちらりと昼神さんの方を盗み見た。私の隣に座っている友達の質問を浴びる昼神さんはその勢いに若干困っている様子が伺える。いや、困っていると言うよりも友人の勢いに押されていると言う方が正しいかもしれない。

「え〜! じゃあ昼神さんはあそこの動物病院の獣医さんなんですね!」
「獣医って言ってもまだまだ駆け出しで」
「でも凄いですよ。実家に犬いるんで何かあったら昼神さんのところに行きますね!」

 ふうん、そっか。昼神さんは獣医さんだったんだ。毎朝出勤前に寄ってくれているんだと思っていたけど、コーヒーを持ちながら動物病院に行くのかな。麦の味も忘れてそんなことを考える。

「名字さんはあのお店、長いんですか?」
「えっ」

 急に振られた話題にまぬけな声をあげてしまった。
 口に泡ついていないかな。私の心配をよそに、人の良さそうな笑みのまま昼神さんは続ける。

「あ、すみません。何度かお店に行っていて、ほら、今朝寒いですねって」

 知ってます。いつも来てくださってること。本日のコーヒーを注文してくれること。あと、微笑む横顔がとってもかっこいいことも。

「今朝は急に声かけてしまってすみませんでした。いつも来てくださってるの知ってて、なんか、なんとなく口が動いたっていうか。まさか今日ここでこんなことになるとは思ってなかったんで結構びっくりしちゃって。あ! 昼神さんと話した後に今日のこと決まって、だから、別にわかってて声かけたわけじゃないっていうか……!」

 昼神さんからの質問に答えるよりも先にそう言うとそれこそ私の勢いに圧倒させられたのか、昼神さんは顔を俯かせた。肩を震わせて笑いをこらえているあたり、悪い印象ではないようだ。

「ご、ごめんなさい。一気にたくさん話してしまいました……」
「いえ」

 んん、と咳払いをした昼神さんは私を見つめながら言う。

「思ったとおり素敵な人で良かったです。いや、思った以上に素敵な人でした。ってこれ気持ち悪いですね」

 昼神さんは苦笑して「すみません」と誤ったけれど不快感は何もなかった。むしろ不快感というよりも……とその感情の正体を探る前に私は食い気味に言った。

「そんなことは!」

 昼神さんはやっぱり楽しそうに笑うだけだった。






「次の店どうする?」

 おおよそ2時間におよぶ食事会が終わりお店を出ると、誰かがそう口にした。つまり、次の店を考えるくらいにはそれなりに盛り上がったというわけである。
 ぼんやりと空を見上げて今日が満月だということがわかった。雲のない空には歪みのない美しい月が浮かんでいる。

「名前どうする? 一次会来てくれただけでも助かったからさすがに無理にとは言わないよ。一緒に行けるなら行きたいけど」

 周りに聞こえないように言う友達の言葉にどうしようかと考える。私も楽しくなかったわけじゃないから別に行くのは嫌じゃないんだけど。そう思いながら、私の視線は自然と昼神さんのほうへ向いていた。
 冷え込むようになった夜。寒いのかトレンチコートのポケットに手を入れて仰ぐように空を見上げている。同じ月を見ていた。私はそれがやけに嬉しかった。
 昼神さんは行くのかな。昼神さんが行くなら次のお店行きたいし、行かないなら私も帰ろうかな。それはさすがに露骨だろうか。

「幸郎は行かねーの?」

 男性陣の一人が昼神さんに声をかける。まるで盗み聞きをするみたいにその返答に耳を傾けた。秋が終わる空気の音と共に昼神さんの声が私の耳に届く。

「俺は帰るよ。明日、勉強会入ってるから」
「そっか気をつけて帰れよ」
「名字さんは?」

 帰るんだ。そう理解すると共に、昼神さんは私にそう声をかけた。え、私? 声をかけられるなんて思ってもいなかったからすぐに返事が出来ない。昼神さんが帰るならやっぱり私も帰ろう、かな。

「えっと……」
「帰るなら駅まで送るけど」

 それは私にとって魅惑の誘いだった。ほとんど傾きかけていた私の中の天秤は完全に「帰る」に傾く。丸い月が浮かぶ空の下、そこに言葉はなくとも駅までの道のりを昼神さんと歩きたい。純粋にそれだけを望んだ。
 きっと、昼神さんが醸し出す雰囲気がとても優しかったからだと思う。
 
「……帰ります」

 控えめにそう言うと昼神さんはほんの少しだけ口端をあげた。気がする。
 おやすみ、と他の人たちに別れを告げて私と昼神さんは駅の方向へ向かって並んで歩き出す。身体の左側に熱がこもるような感じがして、それはとてもくすぐったかった。
 
(21.05.10)

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