プロポーズ




 目覚めた瞬間、届いてきたのはコーヒーの香りだった。ああ、そうだ。ここは俺の部屋じゃなくて名前の部屋だと、昨夜、共に過した時間を思い出す。目覚ましの音でも名前の声でもなく、この部屋に泊まった朝、俺を起こしてくれるのはいつもこの香りだ。
 二人で眠るには狭いベッドに残る仄かな体温。もしかすると名前もついさっき起きたばかりなのかもしれない。自分の部屋ではないのにやけに落ち着く空間の真っ白な天井を見つめて再び瞼を下ろす。眠気はない。だけどまだ眠っているふりをする。あとは名前が俺の名前を呼んで起こしに来るのを待つだけだから。

「幸郎くん。朝だよ、起きて」

 間もなくするとゆっくりと足音が近づいてきて、そんな思惑を知らない名前が俺の名前を呼んだ。狸寝入りをしているなんて思いもしないだろうなと考えながら、俺もまた白々しく、ちょうど今この声で起こされたのだという様子を見せる。

「ん……今何時?」
「9時だよ。朝ごはんあるし、コーヒーも淹れたから一緒に食べよ」

 柔らかい声と眩しい微笑み。つい腕を伸ばして名前の体を引き寄せると、いとも簡単に体勢を崩した名前はそのまま俺の胸に倒れ込んでくる。「わ」と短い驚きの声を発して、退けようとするけれどそれよりも早く制した。

「幸郎くん、寝ぼけてるの?」
「全然。しっかり起きてる。名前が可愛く起こしてくれるから抱きしめたくなっただけ」
「なにそれ」

 小さく笑う名前。俺はこういう瞬間が、言葉に表せられないほど好きだったりする。
 本当はこのまま抱きしめあったままでもいい。ベッドからはみ出さないように密着しあってキスをするのもいい。だけど名前が淹れてくれたコーヒーと作ってくれた朝ご飯のためにも今はここから抜け出さなくてはいけない。

「おはよう、名前」 
「おはよ、幸郎くん」

 見つめ合って、一日を始めるための合言葉を伝え合って、何でもない今日が始まる。

「なにか手伝うことある?」
「ううん。後はお皿に乗せるだけだから大丈夫。先に顔洗ってきてもいいよ」

 遠慮じゃなくて本当に手伝うことはないのだろうと、その言葉に甘えて先に朝の身支度を済ませる。
 洗面所からリビングに戻ると目に入ったのはキッチンに立つ名前の背中。なんてことのない光景だ。だけどその小さな体が息をして、動いている姿に対して湧き上がる「愛おしい」という気持ち。
 特別じゃない朝に特別な人がいる。何でもない日を彩ってくれる人がいる。これから先の人生で、これ以上の人はきっと現れないだろう。そういう気持ちを名前は時々、強く俺に与えてくる。
 そっと名前に近づいて、後ろから腕を回して抱きしめた。柔らかさと温かさが伝わってきて、それはとても自然に口から溢れ出ていた。

「名前」
「なに?」
「結婚しよっか」

 作業をする名前の手が止まる。どんな顔をしているのか気になるけれどこの体勢じゃ確認することが出来ない。コーヒーの香り漂う沈黙。困らせてはいないと思う。でも表情を確認できない中、何も言われないのも不安を覚える。

「嫌?」
「嫌じゃ、ない……」
「じゃあ、突然で驚いた?」
「うん。だって幸郎くん、そんな雰囲気全然出してなかったから」

 まあ、そうだよな。それっぽい場所でそれっぽい行動を見せたら「もしかすると」と勘付いてもらえるだろうけど、今はそれとは真逆のシチュエーションなのだ。
 俺は別に芸能人でも有名人でもないから「プロポーズの言葉は?」なんて聞かれることもないし誰かに聞かれたとしても事細かく伝える気はないけれど、一生覚えていたい記憶だからこそ、もっと意味のある日に特別な場所で言うべきだったのかもしれない。

「やり直す? もっとおしゃれな感じで」
「やり直せるものだっけ?」
「名前の記憶がなくなれば」
「怖いこと言わないでよ」

 そう言って名前は笑った。
 表情は見えないけれど想像できる。その笑顔はいつも俺に向けてくれる俺の好きな顔。名前が自ら体を動かしてこちらに顔を向けると、目線の先にあるのは想像していた通りの笑顔。

「やり直しは嫌。幸郎くんからのプロポーズはこれがいい」
「じゃあ、受け取ってくれる? 俺からのプロポーズ」
「うん、もちろん」
「良かった」

 名前のとても優しい瞳。
 手離したくない。独り占めしたい。そんな幼い感情が顔を覗かせる。それを露わにするのはさすがにかっこ悪いから、いつも通りを装う。

「という訳でこれからもよろしく、名前」
「こちらこそ」
「いろいろ考えたり決めたりしないとだなー」
「忙しくなるね」

 コーヒーの香りと共に、少しだけ特別になった一日が始まる。愛してるの気持ちを込めて名前にキスをした。

(24.03.12 / 100万打リクエスト)

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