給湯室での会話が聞こえた話


 社会人って時々どうしようもなく理不尽だ。
 その場を取り繕う術も身に付いて上手に笑う事もお手の物になってきたけれど、時々どうしようもなく「やってらんねー」と心の中で思ってしまうことがある。

 ――名字さんと黒尾さんって付き合ってるのかな。
 ――わかんないけどあのふたり距離感近いよね。

 給湯室から聞こえてきた後輩同士の会話に、ああ今席を立つんじゃなかったと後悔した。
 このまま盗み聞きしても悪い予感しかないと踵をかえそうとした矢先、正面からやってきた人にぶつかってしまったから尚のこと己のタイミングの悪さに絶望する。

「す、すみま……」
「今顔面から思いっきり当たんなかった?」

 頭上から届いた声に、もしかして……と思いながら顔を上げるとそこには驚きと動揺を混ぜた表情の黒尾がいた。
 よりにもよって今ここで黒尾か、と慌てて給湯室の方へ耳を傾ける。幸いにも私と黒尾がここで鉢合わせしてしまったことに中にいる彼女たちは気づいていない様子だった。

「ごめん。スーツに化粧ついてない?」
「それより名字だろ」
「や、私は全然大丈夫」

 大丈夫だから、彼女たちに気付かれる前にここを去らなくてはと焦る。

 ――あたし黒尾さんのこと狙ってるから名字さんと黒尾さんが付き合ってるとか困るんだよね。
 ――黒尾さんかっこいいもんね。他にも狙ってる女子社員いそうじゃない?
 ――宣戦布告しちゃおうかな。
 ――うそ。まじ?
 ――名字さんって仕事一直線で恋愛から遠ざかってる感あるから負けないと思うんだよね。
 ――ええ、ひどーい。それは言い過ぎでしょ。

 相変わらず聞こえてくる話題に私と黒尾は顔を見合わせて苦笑いするしかなかった。100歩譲って話題に挙げるのは良いとしても、せめて周りに配慮して小声で話して欲しい。

「今は給湯室に行けるタイミングじゃないってことで」
「みたいだな」

 私達が配慮するなんて理不尽な話だと思いながら小声で会話を交わしてそっと給湯室から離れる。少し面倒だけど1階にある社員用のカフェスペースへ行こうと提案すると黒尾は二つ返事で受け入れてくれた。
 二人きりのエレベーターで別に黒尾とはそんなんじゃないし、と心の中で呟いてみる。
 別にそんなんじゃない。私たちの代は私と黒尾しか採用されなかったから必然的に仲良くなるしかなかったのだ。私の同期は黒尾だけで、黒尾の同期は私だけ。仕事内容は違うけれどそんな状況で仲良くならないほうがどうかしてる。

「それにしても結構な言われようだったな。大丈夫か?」
「え? あ、うん。まあ悪い子じゃないから良いんだ。悔しいけど恋愛から遠ざかってるのは本当だし。業務に支障がでなかったらそれでいいかな」
「宣戦布告されんのに?」
「あはは、そうだった」

 エレベーターの扉が開いて、並んでカフェスペースへ向かう私たちは他の誰かにもそんな風に見られてしまっているのだろうか。

「あんまり気にすんなよ」

 私の心情を察したかのように黒尾は言う。時々どうしようもなく「やってらんねー」と思う時は、同期の一言で案外なんとかなるのもまた事実だ。

「うん」
「仕事一直線も悪くねぇしな」
「ね。仕事一直線も悪くないよね」
「それでこそ名字だな」
「こんなんで気持ち沈んでたら社会人なんてやっていけないからね」

 強がっているわけではなく、本心からそう言うと黒尾は柔らかい顔つきで口角を少し上げた。

「だな」
「ただそれくらい人を好きになれるのは羨ましいって思うけど。仕事の先輩に宣戦布告出来るくらいの恋って凄いなーって。とりあえず黒尾は熱烈なアプローチを受ける準備しとかないとだね」

 まあ、黒尾なら受ける気のないアプローチは上手くかわして、下手に期待を持たせるようなこともしないと思うから大丈夫だろうけど。

「……やっぱ俺たち付き合ってるってことにしとかない?」
「しとかない、しとかない」

 黒尾は分かりやすく項垂れる。別に黒尾と付き合ってると思われるのが嫌なんじゃなくて好奇の目で見られるようになるのが嫌なだけなんだけど、それを言うと事が面倒になりそうだと思ったので口にはしないことにした。

「大丈夫。黒尾が困った時は私が助けるから」
「頼もしいことで」
「たったひとりの同期に仕事辞められちゃったら困るからね」

 社会の理不尽さとかどうしようもないやるせなさとか、未来への漠然とした不安や誰かと比べて不必要に落ち込むこともあるけれど、私はそれでも今日をがむしゃらに生きている。

「じゃあ名字が好きそうなメシ屋見つけたから今度そこで飲もうぜ」
「お、いいね」

 そしてそんな毎日が、私は案外嫌いじゃないのだ。

(23.11.16)
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