元カレと偶然会っちゃった話


 久しぶりにこんな時間まで残業してしまった。
 まだ週の真ん中だって言うのに頑張りすぎたと、寝静まったオフィスを後にして閑散とした駅前通りを歩く。

「おーい、名字」

 そんな私の重たい足取りを呼び止める声。

「黒尾じゃん」

 振り返った先にいたのは同期の黒尾だった。
 遠目でも分かるスタイルの良さに、モデルかよ、とつい心の中で思う。

「もしかして黒尾も今帰り?」
「そ。名字も残業だったんだな」

 も、ってことは黒尾もそうなのだろう。
 顔付きが普段より疲れている感じがする。だけど霞む月明かりの中ですっかり夜の帳が下りた空の色は黒尾の髪の毛の色によく似ていて綺麗だと思った。

「予定外の残業だけどね」
「今から帰りだろ?」
「うん。疲れたしお腹も空いたからさっさと帰ろうかなーって」
「じゃあメシでも食いに行こうぜ」
「え! 行く行く!」

 このままコンビニご飯か家にあるレトルト食品で夜ご飯を済ませる事になりそうだなと思っていたから、黒尾とばったり会えてよかったのかもしれない。
 ちょうど昨日は給料日だったし、少し奮発しても良いんだけど黒尾はのってくれるだろうか。

「肉行こうよ、肉」
「ガッツリ系の気分?」
「こんだけ頑張って仕事したんだもんガッツリいかないと明日も頑張れない」
「ちょうど給料出たばっかだしな」
「そういう事」

 顔を見合せニヤリと笑う。
 そうと決まれば、と駅の入口に背を向けて時折行く馴染みの焼肉屋へ向かう。

「名前?」

 再び私を呼び止める声が聞こえたのはそんな瞬間だった。
 いまさっきすれ違った人が驚いたような声色で私を呼ぶから、街灯の明かりを頼りにその顔をまじまじと見つめる。あ、と正体に気付くと同時にそっと耳元で「誰?」と黒尾が尋ねる。

「あー……元カレ」

 隣には女性が立っていて、手を繋いでいる様子から今の彼女だと察した。
 お互い納得の上で別れたし、別れてからは1年も経っている。だから新しい彼女がいてもおかしくはないはずなのに、少し前まであの場所にいたのは自分だったんだなと思うと奇妙な気分になる。

「久しぶりだな」
「久しぶり」
「今度大学のゼミの時のメンバーで集まろうぜって話になってるから連絡するわ」
「あ、うん」
「じゃあな!」
「じゃあ」

 意外とあっけなく終わった会話に、改めてこの人との恋は過去の事だったんだなと痛感した。
 少し前まではちゃんと好きで、大好きで、このままずっと一緒にいられたらいいなと思っていたはずなのに、今はその時の気持ちが嘘みたいに思える。

「名字ああいう雰囲気の男がタイプだったんだな」
「タイプっていうか、たまたま付き合った人があの人だっただけ。好きになった人がタイプってやつ」
「ふーん」

 興味があるのかないのか、黒尾は間伸びした声で返事をする。
 そう言えばこういう話題、黒尾とはほとんどした事がなかったな。黒尾に今彼女がいないのは知ってるけど、どういう女の子がタイプなんだろう。その気になれば彼女の一人や二人くらい作れそうなのに、競技普及事業部は特に忙しいからそんな時間もないのかな。まあ、別に今はそこを深堀しなくてもいいか。

「大丈夫か?」
「え、なにが?」
「さっきから微妙な顔してんなって」
「なにそれ」

 後悔はない。詫びしさも、虚しさも。
 でも私の隣に黒尾がいてくれた事は、多分私にとって結構意味のあることだったんじゃないかと思う。張り合おうとか負けたくないとかそんなんじゃなくて。

「慰めてやってもいいけど?」

 少し面白がるような、ニヤニヤした顔つき。黒尾の恋愛について考えてた、なんて言ったら大爆笑されるかもしれない。

「そもそも落ち込んでないし」
「黒毛和牛1人前おごってやろうかなって思ったんだけど」
「いやぁ、ちょうど絶望してたところだったんだよね」
「絶望してる奴の顔じゃねぇな」

 黒尾は笑う。だけど私は知っている。この後絶対に黒毛和牛1人前を奢ってくれることを。
 決して長い付き合いではないけれど、私は黒尾がそういう奴だってことをちゃんと知っているのだ。

「ええ、じゃあもうせっかくだし1番いいコースにしちゃおうよ」
「あそこの1番いいコース、肉の量結構あるけど食えんの?」
「食えます。今日は食います!」

 ほんとかよ、と黒尾はまた笑った。
 背中を押すように涼やかな夜風が吹いて、今日もよく頑張ったと私はたった一人の同期と肩を並べる。

(23.11.17)
prev | back | next