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 飛行機がどういった原理で長距離移動出来るのかは知らないけれど、約13時間の空旅に不安も恐怖も一切なかった。
 日本航空1405便。成田発ローマ行き。搭乗チケットをかざして機内へ足を踏み入れる。首から下げた一眼レフに手を添え、これから始まる日々を思う。私の目に映る景色を。移ろいゆく一瞬を。誰かにとっての日常を。収め、届けるのだ。
 機体は定刻通りに日本を発ち、雲一つない快晴へ向かって上昇を続けた。






 今から1ヶ月前。初夏。正午。

「ローマ?」

 美羽さんが驚きの声をあげる。オシャレなカフェのテラス席。グラスに入ってる氷がカラン、と音を鳴らした。

「急なんですけど、2週間後に発つことになりました」
「本当に急だね。いつまで?」
「半年から1年の予定です」

 私はフォトグラファーだ。それなりに仕事を貰って、それなりに暮らしていけるレベルのフォトグラファー。
 普段は主にファッション紙で使われる写真を取ることが多い。モデルさんを撮ったりしてると言うのが一番イメージしやすいかもしれない。ヘアメイクアーティストをしている美羽さんと出会ったのもこの仕事がきっかけだ。

「イタリアのファッション紙ってこと?」
「いえ、それが広報用の写真なんです。観光地とか、食べ物とか、穴場スポットとか。イタリアへの観光客を増やす為にSNSを使って毎日写真をアップするのが今回の仕事で」

 贅沢は出来ないし仕事を選べるなんて事もないけれど、それ一本で食べていくのは難しい世界で、こうやって生業に出来ているのは恵まれているのだと思う。
 フリーランスで仕事を請け負っている私が、長期の契約を交わすのは初めての事だった。しかも撮影先は国外。イタリア。主にローマ。SNSで写真をアップする事がメインとは言え、これまで携わった事の無い部門の仕事。
 だけど依頼を貰った時、二つ返事で受け入れた。

「契約条件も良いし、経験を積む為にもやってみたいなと思って」
「素人目線だけど、名前ちゃんがたまに載せてる旅行の写真、SNSで見ていつも上手だなって思ってたから、絶対良い結果残せると思うよ」
「美羽さんに言ってもらえると心強いです」
「それにしてもローマかぁ。そっかぁ……」
 
 美羽さんはしみじみと、その都市の名前を噛みしめるように言う。それもそのはずだ。美羽さんには年の離れた弟さんがいて、その人は今ローマにいるのだから。
 
「美羽さんの弟さんもローマですもんね」
「そ。最近は連絡取れてないけど、まあ飛雄の事だから楽しくやってると思うんだよね」
「そういえばこの前、飛雄くんのインタビュー記事読みましたよ。ローマのチームでも大活躍してるみたいで凄いですよね」
「あはは。まあ、自慢の弟」

 美羽さんの弟、影山飛雄さんはバレーボール選手だ。現在はローマにあるチームと契約を交わしていて、毎年日本代表にも選出される実力者。
 私は1度も顔を合わせたことはないけれど美羽さんを通して話を聞いているから、昔から知っているような感覚を覚える時がある。友達の彼氏と会ったことはないのに、話を聞いてるから知り合いのような気がしてしまう、あれだ。

「住むところとかは大丈夫なの?」
「そういうのは全部契約先が手配してくれるみたいなので。ただローマは行ったことがない場所だから、無事にその部屋までたどり着けるかどうかが心配です」

 苦笑しながら言う。大学の時、第2外国語でイタリア語を選択したから少しはわかった気でいるけれど、実践で役立つレベルかと言われれば怪しい。
 だけど今は翻訳アプリもあるし多分何とかなるだろうと美羽さんに言っても、その表情はどこか心配そうだった。

「でもヨーロッパの中でもイタリアは治安悪い方だっていうし……そうだ! 飛雄がいる」
「え?」
「飛雄の連絡先教えてあげるよ。慣れるまで……ううん、好きなだけ頼っていいからさ。仕事って言っても初めての海外生活でしょ? 一人でも知ってる人がいるなら気持ち的に楽じゃない?」
「それは……そう、ですね」
「飛雄にはあたしから言っておくから」

 確かに美羽さんの言うように、知り合いがいるのは心強い。しかし私と飛雄くんはまだ知り合いではないのだ。私が一方的に知っているだけ。

「でも良いんですか? 飛雄くんの許可なしに」
「あ。飛雄、愛想良い訳じゃないから名前ちゃんのほうが嫌か」
「そんなことはないです! 光栄過ぎるほどって言うか。……じゃあ、えっと、飛雄くんに言ってみて大丈夫そうなら頼らせてもらいます。もちろん迷惑はかけないつもりですけど、知り合いがいるっていうのは実際かなり心強いので、よろしくお願いします……!」

 美羽さんに頭を下げる。連絡先を交換できたとして、私はちゃんと知り合いになる事が出来るだろうか。なれると良いな。大好きな美羽さんの弟さんだから、仲良くなれずとも知り合えるのは純粋に嬉しい。

「うん。ローマ、気をつけて行ってきて。あたしもSNSで写真見られるの楽しみにしてるから。戻ってきたらまた一緒にご飯しよう」

 氷が溶けて薄くなったアイスカフェラテ。その笑顔を前に、私は大きく頷いた。

(21.12.05)