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 そして、現在。
 飛行機は無事にフィウミチーノ空港へ着陸した。入国審査を済ませ、荷物を受け取り、到着ロビーへ足を踏み入れる。
 真っ先に目に入ったのは出迎えの人々。ツアー会社の名前が書かれたボードを持って横一列に並んでいる。国内でも見る光景だけど、海外だからなのか、関係のない私までも出迎えてもらえた気分になる。
 でも私の到着を待ってくれているのは彼らではない。飛雄くんの顔を頭に思い浮かべながら、日本人らしき人を探す。人混みを抜け、視線の先にいる誰よりも背の高い人物。

「名字名前さんですか?」

 目があった瞬間、私よりも先にその人は口を開いた。初めて聞く声に名前が乗って、音は優しく私の鼓膜を撫でる。影山飛雄さん。美羽さんの弟。国を代表するバレーボール選手。
 やっぱり背が高いんだなとか、目の部分が美羽さんと似てるなとか、思う事はいろいろあったけれど、まずはここまで来てくれた事へのお礼を言わなければと慌てて頭を下げた。

「そうです。空港まで来てくれてありがとうございます」
「姉から散々言われたんで」
「あはは……。美羽さんには本当に良くしてもらってて」

 写真では何度も見た。美羽さんからたくさん話を聞いてきたしネットニュースで記事を読んだことも。日本を発つ前、一度だけ到着時間の事で連絡を取っている。
 なのに、本人を目にしたのはこれが初めてなんてやっぱりどこか面白い。

「荷物持ちますか?」
「え?」
「重そうなんで」

 夜露のような眼球に私が映った。しゃんとした背筋。切れ長の二重。薄い唇は真っ直ぐに結ばれて、一度も染めたことがないだろう黒髪は艶めいている。
 もしこの人を私のカメラに収める事が出来たのなら、どんなに素敵なことだろう。ぱっと浮かんだ願望に自分でも驚く。

「えっと……見た目の大きさ程重くないので大丈夫です。でも、ありがとうございます」

 キャリーケースの持ち手をしっかりと握る。
 時折出会うのだ。一瞬にして心を奪ってゆく人と。もっともっとこの人を撮りたい。違う一面を引き出したい。その人にとって最高の一瞬を、私の手で永遠にしてみたい。そう思わせる人と。

「あっ。美羽さんから預かったお土産があるので、後で渡しますね」
「あざっす」

 生まれた欲望をかき消すように言う。
 だけど、私に彼を撮る権利はない。

「いつも美羽さんから飛雄くんの事聞いていたので……あ、いや、えっと、影山さん……影山選手? ごめんなさい。美羽さんが呼び捨てしているのでつい私も飛雄くんって呼んでて……」
「別になんでもいいです。敬語じゃなくてもいいんで」

 多分、呼ばれる名前にも言葉遣いにもさほど興味がないのだろう。飛雄くんは言葉を床へ置くように言った。
 美羽さんが前に「飛雄はバレーにしか興味ないからね」と言っていたことを思い出す。大げさでもなんでもなく、本当にそうなんだと思った。

「じゃあ、えっと、飛雄くんで」
「っす」

 飛雄くんはそれだけ言うと交通機関の乗り場へ向かい歩きだした。その長い脚に置いていかれないよう、私も慌ててついてゆく。

「テルミニまでは乗り換えないんで」
「わかりました」

 私が契約を交わした会社の本社はローマの中心部にある。目指す先はテルミニ駅。日本で言うところの東京駅だ。
 歩くたびにタクシー運転手や乗り合いバスの案内人に日本語で声をかけられて、私はその都度「No」と律儀に断りの言葉を言う。けれど飛雄くんは慣れたものなのか、特に反応を見せることなく足を進めている。
 進めているのだが。

「……あの、飛雄くん、駅までの道はこっちかなって思うんですけど」

 看板案内を無視して飛雄くんが向かっている先は出発ロビーだ。そのエスカレーターを上がっても恐らく電車乗り場は無いだろう。
 出来るだけ控えめに言えば、飛雄くんは驚いた顔で私を見る。嘘だろ、と言いたげな表情をしているのに発せられたのは「……すいません」という何とも力無い言葉。
 意外だと思った。研ぎ澄まされた雰囲気を出しているのに、方向に関する感覚が鈍いのかもしれないと思うとちょっと可愛い。

「いえ、全然。空港ってあんまり来る機会ないですもんね」
 
 何故か私の方が飛雄くんよりも半歩先を歩く形で駅まで行く。チケットの買い方は飛雄くんから教えてもらって、無事にテルミニ行きの電車へ乗り込む事が出来た。
 私一人だったらもっと手間取っていただろうから、飛雄くんが来てくれてやっぱり良かったと思う。

「40分くらいです」
「え?」
「テルミニまでの時間です」

 向かい合わせに座った席。改めて見つめるとそう伝えられる。

「わかりました」

 窓の外へ顔を向けた飛雄くんの首に浮かぶ胸鎖乳突筋。くっきりとしたフェイスラインが美しい。思わず首にかけたカメラに触れたけれど、自分を律した。この人に心を奪われるのは良くない。
 同じように窓の外へと視線を向ければ次々と視界に入ってくるイタリアの風景。私が仕事をする国。そして、これが私の届ける景色。

(22.01.01)