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 お店を出る頃にはすっかり太陽も姿を消し、満天の星が私達を見守るようになっていた。街中に点在する歴史的な建築物を横目に歩きながら美羽さんの宿泊しているホテルを目指す。
 ローマ中央国立図書館の近くは目立った観光名所が無いとは言え、テルミニ駅に近いことからこの時間でも多くの人の往来がある。石畳の道を横並びに歩きながらホテルまで辿り着くと、美羽さんは私達を交互に見つめながら言った。

「じゃあ、今日はありがとね。週末また連絡するから」
「こちらこそありがとうございました! 週末、楽しみにしてます」
「詳しいことはまたそのときに。飛雄、名前ちゃんのことちゃんと送ってあげてね」
「わかってる」

 小さく手を振り、背を向けた美羽さんを見送る。その背中がドアに吸い込まれたのを確認し、私は飛雄くんを見上げた。私たちが乗るメトロはB線。テルミニ駅はすぐ近く。

「私達も帰りましょうか」

 飛雄くんとはいつもこんな風にテルミニ駅を目指している気がする。
 淡い月明かりが街の隙間に差し込み、建造物を浮かび上がらせている。真っ直ぐに伸びる道には等間隔の街灯。遠くに見えるオベリスクは道標のように空へと伸びる。まるで映画の主人公になれるのではないかと錯覚してしまいそうなくらいにローマの街はいつもロマンティックで、心の柔らかい場所を刺激する。

「私、飛雄くんより食べてましたよね」
「そう、すか?」
「絶対そう。美味しいからついたくさん食べちゃったし飲んじゃった気がします。あ、でも酔っ払ってはないです!」

 両手を振って否定する私を、飛雄くんはちらりと一瞥する。

「別にたくさん食べる事は悪い事じゃないんで良いと思います。それに俺は自分に制限かけてるだけで、食おうと思えば名前さんより食えます」
「今、名前!」

 そんな夜に飛雄くんの口から放たれた自分の名前に、私はすぐに反応を示した。嬉々として飛雄くんを見つめると、どこかきまりが悪そうに目を泳がせる様子が目に入った。

「すいません……多分、姉のが移りました」
「あはは。確かに美羽さん、たくさん私の名前呼んでくれるもんなぁ。ああ、でも謝らないでください。というか、そのまま下の名前で読んてくれても私は全然。なんなら名前ちゃんでも!」
「え」
「ごめんなさい、冗談です。いや、それでももちろん大丈夫なんですけど! 飛雄くんの好きなように呼んでくれて構わないんですけど、でも、下の名前で呼んでくれるのは、少し仲良くなれた気がして私は結構嬉しいです」

 美羽さんと飛雄くんと3人で食事をしていた時の、賑わった雰囲気を思い出しながら言う。それだけで口角は上がって、幸せな気持ちで心がいっぱいになる。お腹が満たされていることも相まって、もしかすると私は今とてつもなく締まりのない顔をしているのかもしれない。

「……じゃあ、出来るだけ下の名前で呼ぶようにします」

 飛雄くんの声が鼓膜を緩く撫でる。進み幅が少なくても、目に見えぬものだったとしても、重ねる時間の中で互いを知っていけるならそれはとても素敵な事だと思う。出会って、言葉を交わして、互いの名を呼び合って。そういう細やかな事を大切に出来る日々を送りたい。人と人の繋がりはきっとそうやって深まってゆくのだろうから。相手を知ることを私は恐れたくない。

「試合も、観に行くの楽しみです」
「あざっす」
「観覧する上で気をつけたほうが良い事とかありますか?」
「気を……つけ……特にないと思うんすけど」
「じゃあ気合いたっぷり携えて応援にいきます! バレーにはまったら毎週試合観に行きますね」

 言うと、飛雄くんは少しだけ目を見張った。柔らかい秋風が短く切り揃えられた髪の毛を揺らしている。

「でも毎週はさすがにあれですよね。月2くらい……? え、待ってください。なんですか、その顔。なに言ってるんだって思ったなら笑ってください!」
「笑ったほうがいいんですか」
「引かれるよりは笑われる方がいいです」

 きっと、私は好きになるんだと思う。飛雄くんのバレーを。それは予感に似た確信だった。
 だけどこんな風に躊躇うこともなく言葉にしてしまうのは、飲みすぎたお酒のせいなのかもしれない。むしろそうであってほしい。そうじゃないと私だけが浮かれているみたいでちょっと恥ずかしいから。

「引いてないです。応援してもらえるのは普通にありがたいんで。それに、バレーは面白いんで、好きになってもらえたら俺は嬉しいです」

 飛雄くんは至極平然と言った。私の心中なんてお構いなしに。何があっても揺らぐことのないだろうその心がとても羨ましく、敬意に値すると思った。

「……それならやっぱり、さっきの言葉通りにたっぷりと応援します」

 秋風に私の心も揺れる。それはとても穏やかで優しく、どこかロマンティックな香りを携えているような気がした。

(22.05.30)