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 それから数日後、美羽さんがローマを経った日、飛雄くんから会いたいという連絡が来た。

『姉から名前さんに渡してほしいって言われた物を預かってるんで会えませんか』

 夕刻、燃えるような赤が街を飲み込んでいる。部屋の窓辺に体重を預け、その文面に首を傾げた。
 美羽さんが、私に、渡したいもの。

『もし今名前さんの都合が良ければ近くまで行きます』

 追って届いたその文章を見て、私はすぐさま鏡の前へと走った。
 都合が悪い訳ではない。今日の仕事は終えているし、化粧も落としていない。会おうと思えばすぐにでも会える。ただ、飛雄くんの住んでいるところがここからそう遠くは無いとは言え、わざわざここまで来てもらうのも気が引ける。

『都合、大丈夫です。今は部屋にいるんですけど駅の近くのカフェで待ち合わせするほうが飛雄くんにとって楽だったらそれでも構わないです』
『俺はどっちでもいいんで、名前さんが自宅にいるなら今からそっちに行きます。いいですか』
『わかりました。じゃあ部屋で待ってます』
『多分20分後くらいに着きます』

 飛雄くんがそれで良いのであればと、それ以上食い下がる事はしなかった。部屋は散らかっているわけじゃないけれど手渡したらすぐに帰るだろうし、特に片付けは必要ないだろう。
 なんとなく手持ち無沙汰を感じてカメラの手入れを始める。飛雄くんがこの部屋に来るのは2度目。生活音だけが響く部屋。射し込む夕日だけが唯一の頼りみたいだ。
 手を止め、私はもう一度鏡の前に立った。やっぱり化粧直しだけはしておこう。


▲▼


「すいません、急に。これが渡してくれって頼まれたもんす」

 それからきっちり20分後、飛雄くんは部屋へとやってきた。玄関の中まで招き入れて掲げられた紙袋を受け取る。
 中身はそれほど重くない。プレゼント用に包装されているけれどわざわざ美羽さんが購入してくれたのだろうか。私の誕生日はまだまだ先だし、どれだけ考えてもやっぱり思い当たる節はない。その疑問が届いたのか、飛雄くんが答えをくれる。

「こっちで色々世話焼いてくれたお礼だそうです」

 美羽さんだって仕事が忙しい中でローマで会ってくれたんだから私の方こそお礼をしたいくらいなのに。だけどその優しさが美羽さんらしくて好きだなと思う。細やかな気遣い。器量の良さ。今はまだ飛行機の中だろうからメールだけ送って、落ち着いたころに改めて電話をしよう。

「あと、俺のこと今後もよろしくって言ってました」
「飛雄くんをよろしく、ですか? ふふふ、それを飛雄くんが言うんですね」

 肩を震わせて笑おうとも、私がどうして笑っているのか、飛雄くんはピンときていない様子だ。だって飛雄くんには私の方がお世話になりっぱなしなのに。
 もう日も落ちた。部屋にあがってお茶でも飲みませんか、なんて言える立場でもない。危ないので部屋まで送りますと言えるわけでもないけれど、それでも私なりに飛雄くんとこれからも良い関係性を築いていきたいとは思う。私がそう思っているのを美羽さんもきっとわかっている。だから、飛雄くんにそんな伝言を頼んだのだろう。

「わざわざ来てくれてありがとうございました。飛雄くんの部屋、ここから遠くないって言ってたけど、でも、遠回りでしたよね?」
「通り道じゃねえっすけど、遠回りでもないです。それに遠征の前に渡したかったんで」
「遠征?」
「週末にフィレンツェで試合があります」
「週末にフィレンツェ、ですか?」

 ゆっくりと飛雄くんの言葉を繰り返す。驚いた顔で復唱した私に飛雄くんは首を傾げた。

「実は週末、私もフィレンツェに行くんです」
「そうなんすか?」
「はい、仕事で。あ、私、イタリア観光局と並行してイタリアへ旅行に来た日本人向けに同行カメラマンもしているんです。こっちでウェディングフォトを予定している人の写真撮影とか。それで今週末、その仕事がフィレンツェであって行くことになったんです。朝から夜まで仕事が入っているので試合は多分行けそうにないんですけど……でも、もしかしたら街中でばったり会うかもしれないなって思って」

 と言ったものの、フィレンツェだってそれなりに大きい都市だろうし、街中で偶然会うなんてことあるのだろうか。でもせっかくお互いフィレンツェにいるのだから、会えるならそれはそれで嬉しいし。と悩んだ結果、私はダメ元で飛雄くんに言った。

「飛雄くんさえ良かったらフィレンツェで会いませんか? 同じタイミングで違う都市にいることってなかなかないかなって思ったので、せっかくならと」
「試合の時間にもよるんすけど、多分平気っす」
「え、良いんですか? じゃあ、一緒にイノシシの鼻触りに行きましょう」
「イノシシ?」
「像なんですけど、鼻を撫でると幸福がもたらされるらしいですよ」
「はあ……」

 無理だろうなと思っていたから飛雄くんが快諾してくれたことには正直驚いた。
 イノシシの鼻はきっと飛雄くんにとってはどうでも良いことだろうけれど、ひとりよりふたりのほうがなんだかもっと幸せになれる気がするし。

「時間とか場所とか、また連絡します」
「はい! それじゃあ、また」

 小さく頭を下げた飛雄くんに手を振る。飛雄くんが踵を返すと無機質な音と共にドアが閉まる。
 飛雄くんの言葉尻に疑問符がつくことはない。私はそれがほんの少しだけ嬉しかった。

(22.06.05)