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 ドライフラワーにしよう。翌日、一輪のチューリップを見つめながらそう決意した。形に残す行為をする事で自分を戒めたかったところもある。
 ドライフラワー作りの方法を調べ、バンキング法と呼ばれる方法を実践する。手を動かしながら昨日、警察へ行った時の事を思い出していた。淡々とした事務手続きが逆に自分を客観視させてくれた気がする。
 私以外にも被害にあっている人がいるし、パスポートや財布を盗まれるより実害はないから私の被害は軽いほうだと言えるだろう。私は日本の常識が通用しない場所で生きている。その事を改めて考えさせられた。

「出来た」

 ドライフラワー作りは想像していたよりも簡単ですぐに終わってしまった。壁に吊るされた逆さまのチューリップ。たった一輪が、だけど、私にとっては全てだ。
 本当はまだ少し気が重い。でも昨日はちゃんと泣いたし悔やんだ。だからせめて今日は次に進めるための行動をしなくては。そう自分に活を入れる。
 どうしたってどうにもならないことがあると私は昨日嫌ってほど知ったのだから。

 フェレンツェ以降データの整理が出来ていないことを思い出し、気持ちを切り替える為にパソコンの電源を入れる。
 並ぶ写真。青空と屋根のコントラスト。大聖堂のクーポラ。イノシシ像にダビデ像。それに飛雄くんの後ろ姿も。それ程日数は経っていないはずなのにもうどこか懐かしい。
 その中に混ざっていつもと雰囲気の違う写真を見つける。飛雄くんが撮ったものだとすぐにわかった。だって私が撮るよりも視点が高いし、空との距離が近い感じがする。
 少しぶれた被写体。同じ構図の写真が続くこと。それは写真を撮る上で決して褒められることではないけれど、だけど、そうか。飛雄くんにはこんな風に世界が写っているのか。
 切り取られた美しい世界に自然と口角は上がる。

「……これ、私?」

 見つけたのは、私が写り込んだ写真だった。レンズを向けられていることに気づいてない私はミラーレス一眼を構えて、明後日の方向を向いている。しかしそれはたまたま写り込んだわけじゃなくて、私を主題として撮ったのがわかる構図だった。瞬きを繰り返す。
 飛雄くんが、意図的に、私を撮った。

 ――笑ってほしいと思ったからです。

 理解すると同時に昨日の飛雄くんの言葉が蘇る。瞬間、私の心の奥の柔らかくて無防備な部分が大きく揺れた気がした。
 写った私の横顔は楽しそうにカメラを構えている。もしあの日一人だったとしても、私は楽しくフィレンツェを満喫したんだと思う。でも飛雄くんがいたからもっと楽しかった。

 それは私にとってどんな意味があるのか。

 飛雄くんの事を考える。初めて会った時、飛雄くんの事を綺麗な人だと思った。夜露のような眼球。しゃんとした背筋。切れ長の二重。薄い唇。艶めいた黒髪。それらを写真に収めてみたいと思ったのは、確かに私の写真家としての欲望だった。

『飛雄から聞いたんだけど名前ちゃん昨日大変だったみたいだね。心配で連絡したんだけど、大丈夫? 飛雄がさ、自分は何も出来ないからあたしに頼むって。話聞くくらいしか出来ないと思うけど何でも言ってね』

 美羽さんからの連絡を受けて、壁に吊るしたチューリップへと視線を向ける。私の瞳を奪う可憐なピンク色のドレス。緩やかな曲線が優雅で、美しくて、かわいい。

『美羽さん、連絡ありがとうございます。飛雄くんから聞いたと思うんですけど、でも飛雄くんのおかげでなんとか今、冷静にいられてます』

 どうして今、こんなにも心臓が揺さぶられるのだろう。それはほんの少しの痛みを伴って、だけど時折抗えないほどの心地良さがある。
 一緒にご飯を食べる事。試合を観に行った日。地下鉄で揺られる時間。フィレンツェの街並み。差し出された一輪のチューリップ。私の写真を綺麗だと言ってくれた声。バレーボールを追い続ける目線。

『少し安心したよ。飛雄にはこれからも名前ちゃんのことよろしくって言っておくから』

 何もなかったのに積み重ねてしまった。だから私は今、こんな感情を抱いているんだろう。
 気付いたのか、気付かされたのか。飛雄くんのこと考えると泣きたくなるようなこの感情の正体はひとつしかない。

『美羽さん』

 こんな事を突然言ったら美羽さんは驚いてしまうかな。でも言わないわけにはいかなかった。認めないわけにはいかなかった。
 いつからなんてわからないけれど、でも、ゆっくりと惹かれていたんだと思う。その存在に。その魅力に。その優しさに。

『私、飛雄くんのことが好きです。好きになってしまいました。だから私は飛雄くんともっと対等になりたいです。飛雄くんの中にある"美羽さんに頼まれたから"をなくしたいです』

 わがままだろうか。だけど文字を打つと一層現実味が増した。退路を断たれたような気分。心臓がぎゅっと締め付けられる。痛い。甘い。痛い。甘い。

『そっか。うん。あたしとしては名前ちゃんが弟のこと好きになってくれたの、結構嬉しい』

 その言葉の向こうで美羽さんが優しく微笑んでいる気がした。
 同時に飛雄くんのことを想う。失ったり、得たり、人生はままならないけれど、私にしか歩めない道だと全てを謳歌出来る人でありたい。
 そう思える心のゆとりをくれたのは紛れもなく飛雄くんが私のそばに居てくれたからなのだ。
 
(22.06.13)