18

 冬が姿を見せている。12月上旬の澄んだ空気。冷たさの中に混ざる清々しさが私の背筋を伸ばす。今日も無事に仕事を終えて帰路についていた。スーパーマーケットへ寄る為、ひとつ先の駅まで地下鉄に乗る。

「Hey」

 そう声をかけられたのは地下鉄を降り、スーパーマーケットへ向かってしばらく歩いてからの事だった。足を止め、声の方を向く。

「Open」

 短い単語と共に背負っていたリュックを指さされる。一瞬何のことかわからなかったけれど、私を追い抜いて去ってゆくその人の後ろ姿を見て理解する。と同時に血の気が引いた。
 うそ。まさか。心臓がはやるのを感じながら道の端で私は慌ててリュックの中身を確認した。財布は奥底にある。スマホも手前のポケットに入れている。ミラーレス一眼もある。だけど、カメラの交換レンズが1つ無い。気付いた瞬間頭の中が真っ白になった。多分、盗られた。それだけが事実だった。

 イタリアでスリは非常に多い犯罪だ。特に外国人観光客を狙ったものが多いと言う。リュックが開けっ放しだったアジア人の私はきっと格好の餌食だったに違いない。子供のスリならばリュックの位置的にも盗りやすかっただろう。
 でもいつから? いつからリュックは開きっぱなしになっていた? 思い返そうにも全く思い返せない。地下鉄に乗る時? カメラをしまった時? それとも、もっと前?
 イタリアでスリの被害にあっても現行犯じゃないと逮捕は難しいと聞く。もちろん盗難届は出す。だけどあのレンズはもう戻ってこない。イタリア滞在数ヶ月の私でもそれは安易に想像がついた。いつかどこかの蚤の市で売られるのだろうと。

 防犯に対する意識が薄れていた自分にも比はある。そして現状を理解すると共に呼吸は苦しくなる。
 だって。だって、あれは。

「名前さん?」

 突然届いたその声に、呼吸することを思い出した。大きく酸素を吸い込んで、ゆっくりと二酸化炭素を吐き出す。

「飛雄くん、どうしてここに……」

 私の前に立った飛雄くんがスーパーマーケットのある方を指差す。

「ここらへんで一番でかいスーパーあそこなんで」

 そっか。確かに。品揃えはあそこが一番良いから飛雄くんが利用していてもなんらおかしくはない話だ。ドクドクと大きく脈を打っていた心臓がゆっくりと平常を取り戻す。しかし、確かに生まれた心の隙間に苦い感情が広がって真っ直ぐに飛雄くんを見れない。出来るだけいつも通りの自分でいたいのに、上手に立ち振る舞えない。
 耳に馴染んだ声色。慣れた身長差。ふがいない自分とどうしようもない現実。急に、フィレンツェで触れたイノシシの鼻の事を思い出した。今、ここで会ったことは私にとって幸運なのか、否か。感情の波が一気に押し寄せる。

「……名前さん、泣いてますか」
「え……いや、あの、ちが……ごめんないさい、違うんです。なんか勝手に涙が……」

 頬を伝った涙。指摘されて慌てて顔をそらす。
 どうして泣いてしまったんだろう。どうして我慢できなかったんだろう。飛雄くんの前なのに。それとも飛雄くんの前だから我慢できずに泣いてしまったんだろうか。涙を拭っても一度流れた涙はそう簡単には止まらなかった。
 だってあれは父が最後にプレゼントしてくれたものだった。お金を出せば同じものを買う事が出来るけれどその思い出が宿ったレンズは世界に一つだけ。

「俺のせいですか」
「……え?」
「俺がなにかして名前さんを泣かせましたか」

 焦りが滲む飛雄くんの表情に、私は首を振る。誤解されてはいけないと、涙を拭いながら自分の身に降りかかったことを説明した。イタリアでスリの被害にあった。それがどういうことか、飛雄くんはきっと私よりもずっと解っているはずだ。

「……少しここで待っててください。すぐ戻ってくるんで動かないでください」

 私の話を聞いて飛雄くんは僅かに困惑した様子を見せた。迷うような沈黙のあと、そう言って私に背中を見せる。
 言われた通りに私はその場から動かず飛雄くんを待った。涙を流すことができたおかげか、少しだけ呼吸が楽になる。
 だけど胸に広がった苦い感情は何ひとつなくならない。後悔は先に立たない。わかっているけれど、今はただ少し前の自分を悔やむことしかできない。どうして体の前でリュックを持たなかったのだろう。どうしてもっと警戒しなかったのだろう。どうして。どうして。奥歯を噛みしめる。たくさんの感情が混ざる。ぐるぐると、複雑に。

「名前さん」

 しばらくして戻ってきた飛雄くんが、丁寧な声で私の名前を呼ぶ。はっとして頭を上げると一輪の花が目の前に差し出された。

「これ、どうぞ」
「これ、は?」
「花です。近くの花屋で買ってきました」

 ピンク色に身を染めたチューリップ。それが花であるのは一目見ただけで分かる。私が知りたいのは、どうして花を差し出したのかという事。

「どうして、これを?」

 ゆっくりと、視線を飛雄くんへ向ける。

「笑ってほしいと思ったからです。名前さんはいつも楽しそうに笑ってるんで」

 黒い瞳に私を映し飛雄くんは言った。困惑と不安と心配が混ざりあったような表情。私にしている行為が正しいのかどうか迷っているようにも思える。だけど飛雄くんは、私から目をそらすことはなかった。

「だから、少しでも気持ちが楽になれば良いと思いました」

 両手でチューリップを受け取って、じっとその可憐な姿を見つめた。じっと。ただ、じっと。
 飛雄くんは私がいつも笑っているからと言ってくれたけど、その花には、飛雄くんの言葉の裏には、泣いてもいいよという気持ちが込められている気がした。
 優しさが広がって傷口にしみる。それがまた涙を誘うけれどぐっとこらえた。今、ここに、飛雄くんがいてくれて良かった。

「……あの」
「はい」
 
 大きく息を吸うと、肺に広がる冬の空気。

「ありがとうございます」

 お礼を言うのが精一杯だった。
 どれだけ過去を悔やんでも、どれだけ今に憤りを感じても盗まれたレンズは戻ってこない。それでも私はきっと、時々今日のことを思い出しては悲しい気持ちになって不甲斐ない自分を責めるのだと思う。

「……少し冷静になれたので、これから被害届を出しに警察に行こうと思います」
「付き添いますか?」
「いえ、大丈夫です。一人で行けます」

 だけど最後には飛雄くんから差し出されたチューリップが私に向かって微笑むのだ。泣きたくなるような優しさを持った笑顔で。

(22.06.12)