04

 鍵の受け取りも部屋までの移動も、飛雄くんがいたからスムーズに終わったんだと思う。何故か私が先陣を切って道を歩いたけれど、切符の買い方や途中で寄ったスーパーでの買い物も、飛雄くんがいなかったらこんなにすんなりと終わらなかった。
 そもそもミネラルウォーターだってどのメーカーのものを選んだら良いかさっぱりわからなかったのだ。外資系の有名ブランドなら日本でも見たことがあるけれど、イタリアブランドと比べると何倍も高い。ガス入りかガスなしか。軟水か硬水か。これが良いと飛雄くんから教えてもらわなかったら、私は多分何分もミネラルウォーターの前で悩んでいただろう。

「何から何までありがとうござました」

 無事部屋までたどり着き、私は深々と頭を下げた。玄関に立つ飛雄くんからキャリーケースを受け取る。

「あとはもういいんすか」
「はい。あとは一人でも大丈夫です」
「わかりました」

 一度片付けて、1人で必要なものを改めて買いに行こう。家財は備え付けだし、近くに大きめのスーパーがあったから食料品はそこで買えば良い。 

「俺が住んでるところ、ここからそう遠くはないんで何かあったら連絡してください。俺も去年こっちに来たばかりだからすげぇ詳しいってわけじゃないんすけど」
「ありがとうございます」
「多分、名字さんに何かあったら姉が怒ると思うんで」
「あはは……」

 律儀だ。それとも単にそれが姉弟と言うものなんだろうか。一人っ子の私にはよくわからない感覚だ。だけど、その頭には「バレーに支障がでないなら」という文言が隠れているのだろう。バレーに支障がでないなら力になりますよ、と。もちろん私も邪魔するつもりは一切ないし、何でもかんでも頼るつもりもないけれど。

「また、連絡します。さっき言ったお礼もしたいので」 
「っす」

 飛雄くんが軽く頭を下げる。指通りの良さそうな綺麗な髪の毛がさらりと揺れた。男性を相手に適した言葉ではないとわかっているのに、緑の黒髪、という言葉が思い浮かぶ。

「……あの」
「はい」

 綺麗だなと思ったから、声をかけてしまった。

「一つだけお願いがあるんですけど、良いですか?」

 飛雄くんは小首を傾げ、私を見つめた。


▲▼


「……あの」
「うん」
「これで、いいんすか」
「大丈夫。視線を少し外して、カメラ意識しないでほしいな。もっとリラックスして………って初めて入った部屋で言うのもあれだけど」

 窓から差し込む日の光は飛雄くんを照らす。飛雄くんの写真が撮りたいと言った私に、彼は断ることをしなかった。
 プロのモデルさんと比べてしまえば表情やポージングに粗が見えるけれど、それでも私はファインダー越しに見える飛雄くんを美しいと思った。
 窓際の壁に身体を預けながらも、どことなく緊張感を漂わせている。飛雄くんの人間らしさが垣間見えた気がした。

「そうだ。好きな人とか好きなもののこと考えてみて」
「好きなもの……」
「うん。バレーとか、飛雄くんの好きなものなら、なんでも」

 もっと飛雄くんの魅力を引き出したい。わがままな欲求が沸々と込み上がる。
 私の言葉を聞き少し考え込んだ飛雄くんは、次の瞬間スイッチが入ったようにその表情を変えた。視線は手のひらに向いている。好きな人、ではなくバレーのことを考えているのだとすぐにわかった。とても落ち着いた瞳。だけど見え隠れする闘争心。日の光さえ飲み込むような強い影が飛雄くんを際立たせる。
 あ、ここだ。今だ。この瞬間だ。そう思いながらシャッターを押す。私はこの瞬間を永遠にしたい。

「飛雄くん」
「……あ、うす」

 私の声かけに現状を思い出したのか、ハッとした様子でこちらを見る。

「お願い、聞いてくれてありがとうございました」
「もう終わりですか」
「はい。満足する1枚が撮れたので。見ますか?」

 パソコンに繋いでないから画面は小さいけれど、飛雄くんは私の隣でカメラの液晶画面をじっと見つめていた。

「俺だけど、俺じゃない感じがします」
「うん。でもこれが、私から見える飛雄くんです」
「名前さんから見える、俺」
「構図はもちろんなんですけど、窓際で撮影する時って光の入り方だったり、影とのバランスだったり、そういうのも大切になるんです。さっき雲間が晴れて一瞬強く光が入り込んだとき、今だって思って。無我夢中でシャッター切りました」

 もっとたくさん、違う場所や違う条件でも撮ってみたいと思ったことを、私は私だけの秘密にした。

「写真のことはよくわからないですけど、でも、綺麗だって思います。すげぇ、です」

 飛雄くんが私を見つめる。瞳に私が映る。

 あ。

 思わず声をこぼしてしまうところだった。撮りたい、ではなくて触れたいと思ったのは初めてだったから。そんな事を思ってしまった自分にも驚く。
 多分、綺麗だったから。飛雄くんの瞳が。バレーを想う飛雄くんの心が。足跡一つない新雪みたいに、綺麗だったから。

(22.02.28)