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 テルミニ駅は今日もたくさんの人で溢れかえっている。旅行者が街の至る所にいる観光大国のイタリア。それは日本人もまた例外ではない。日本から遠く離れた地であるはずなのに、街中や有名観光地の近くに行けば絶対に日本人の姿を見つけることが出来る。
 今も目の前を通った二人組から日本語の会話が聞こえた。だけど次の瞬間にはゲルマン系らしき言語が耳に届いて、そしてまた聞き慣れてきたイタリア語が鼓膜に触れる。
 そんな風にたくさんの人の中に紛れながら、私は飛雄くんを待っていた。数十分前に練習が終わったとの連絡が届いたからそろそろやってくるはずだ。
 私の頬を撫でる、まだ夏を残す9月の風。人混みをかき分けるようにその人はこちらへやってくる。周りより頭一つ分高い身長。太陽の光に黒髪が照っている。その姿を目に入れて私は自然と笑顔になる。視線がぶつかって私は小走りで駆け寄った。

「飛雄くん!」
「すみません。遅くなりました」
「ううん。時間ぴったりです。私の到着が早かったので。お店、この通り沿いにあるので歩きで大丈夫ですか?」
「わかりました」

 悩んだ結果、クライアント先のイタリア人から聞いたお店へ行くことにした。私も初めていくお店だけど地元民からのお墨付きだし、きっと美味しいはず。

「練習終わりに来てくれてありがとうございます」
「いえ。約束なんで」
「あはは。そうですよね、約束ですもんね」

 当たり障りのない会話をしながら隣り合って道を歩く。メトロテルミニ駅を降りてすぐ、カヴール通りを5分程進むと見えてくるお店の外観。

「ここです」
「近いですね」

 ドアを開けるとオリーブの香りが漂った。予約していた名前を告げ、席に案内してもらう。格式高いリストランテではなくて、気軽に食事を楽しめるトラットリア。大衆的、しかし品の感じる店内はすでに居心地の良さを感じる事が出来た。
 渡された英語とイタリア語のメニュー表に目を通しながら教えてもらったおすすめのメニューを思い出す。

「確か、海老のフリットとラビオリが美味しいみたいです。あ、あとアクアパッツァも。私はラビオリ食べようかな」
「俺はアクアパッツァにします」
「海老のフリット、半分こしません?」
「いいですよ」
「よかった。ありがとうございます。あ、お水も頼みますね」

 注文を伝えて数分後、頼んだ品がテーブルに並べられる。
 メニューにはサービス料含まれているから最後にチップを置く必要はないし、中央に置かれたバゲットも自由に食べて良い。ただし日本と違ってお水は有料。お手拭きだって出てくるわけでもない。それがこの国の当たり前。

「いただきます」
「いただきます」

 日本語を重ね、手と手を合わせ、温かい料理を口に運ぶ。ラビオリの弾力と中から溢れる肉汁。濃厚なトマトの風味と酸味が広がって鼻から抜けていく。

「ん、美味しい!」
「俺のも美味いです」

 追って海老のフリットを持ってきてくれたスタッフが私達を交互に見つめ「Buono?」と笑顔で尋ねてくる。私は頷きながら「ボーノ!」と返した。

「飛雄くんは自炊って聞いたけど、外食は全然しないんですか?」
「たまにチームのメンバーに誘われて行く日もあります。でもだいたい同じところ行くんで、知らない店に入ったのは久しぶりです」
「スポーツ選手って体が資本だから食べ物もかなり大切になりますよね」

 栄養学は基礎的なことしか知らないけれど、アスリートと一般人が同じ食事内容じゃないことくらいは分かる。スポーツや人によっては専属の栄養士がいるし、世界で戦うアスリートにとっては一食一食が体を作ると言っても過言ではないのだろう。

「気をつけてはいます」
「じゃあ飛雄くんは料理上手なんですね」
「見た目は気にしてないんで、多分上手ってわけじゃないです。姉にももう少し見た目どうにかならないのかって言われたこともあるし」
「あはは。どんな見た目なのかちょっと気になるけど、食べるのは自分だし見た目より味とか栄養素重視する気持ちはわかります」

 バレーの話。美羽さんの話。仕事の話。カメラの話。最近あった面白い話とか、イタリアで受けたカルチャーショックとか。そんな他愛もない、だけど、相手の事を少し知れるような細やかな会話を繰り返す。

 お皿の底が見え、迷ったけれどドルチェを頼むことにした。単純に甘いものが食べたかったし、もう少しこの揺蕩うような空気を堪能したかった。アスリートの前でしっかりドルチェまで楽しむのは些か恥ずかしい気もしたけれど、自分の欲求に素直になることは大事だ。
 ティラミスはすぐに運ばれてきた。そっとすくって、ゆっくりと味わう。ココアの苦味とフィンガービスケットに浸透したエスプレッソ。それを甘いマスカルポーネのクリームが優しく包んでいる。

「これ、すっごく美味しいです!」

 口の中で混ざり合って蕩ける味に心が躍る。飛雄くんはただ私を見つめるだけだったけれど、心なしか、待ち合わせの時よりも表情が柔らかくなっている気がした。

(22.04.30)