07

 楽しいから時間が過ぎるのはあっという間だった。飛雄くんは饒舌ではないけれど会話のテンポや考え方が私にとっては心地よくて、お店を後にした今も私の足取りは軽やかで、ついつい口角も上がっている。

「あざっした」
「いえいえ。お礼なので」
「駅向かいますか?」
「そうですね」

 外は薄っすらと暗い。テルミニ駅までは歩いて5分。それが短いのか長いのか、今の私は正しい判断が下せない。

「そう言えば、見ました。SNS」
「あ、私の仕事先のですか?」
「はい。姉に教えてもらったので」
「閲覧ありがとうございます」
「ローマの写真なのに知らない場所ばっかりで驚きました」
「行ってみたくなりましたか?」

 隣に並ぶ飛雄くんを見上げながら尋ねる。ただ綺麗な写真を撮るだけではダメ。私に求められているのは、私の写真を見た人がそこへ行きたいと思ってもらえる事。

「実際に行けるかどうかは別として、行ったら面白そうだなと思いました。あとやっぱりすげぇ綺麗な写真でした」
「なるほど。写真家としては100点、フォトグラファーとしては70点ってところかもしれないですね」
「違いがあるんすか?」

 英語にしてしまえばどちらもフォトグラファーになる。でも私にとって、フォトグラファーと言うときは仕事として求められているものを撮る時で、写真家と言うときは自分が撮りたいものを心のままに撮る時だ。
 だから私の撮った写真が少しでも飛雄くんの琴線に触れたのなら、写真家としては非常に嬉しい。

「うーん……フォトグラファーは仕事、写真家は私の心って感じかな」
「仕事と心」
「ごめんなさい、伝わらないですよね」
「ちゃんとはわからないんすけど、でも、名字さんが写真好きなのは伝わってきます」

 嬉しい。
 その感情が今、芽生えるものとして適切かどうかはわからない。だけど、写真なんてくだらない、なんだって同じだと思う人もいる中で、そう言葉にしてくれた飛雄くんの感性が私にとっては嬉しかった。

 テルミニ駅に着いて、やってきたメトロに乗り込む。空港まで迎えに来てくれた日のように。
 日本と違ってここでは車内で電話をしていても誰からも咎められない。なんだったら楽器を演奏しているグループに出会うこともある。
 私が降りる駅まではあと8駅。時間の経過と共にその数字は少なくなる。窓に映る、隣並んだ私と飛雄くんの姿。
 これ以上一緒にいる理由はない。連絡先は知っている。何かあれば頼って良い存在だという事も。だけど私はその時「美羽さんに頼まれたから」や「頼る相手がいないから」ではなく、一人の人間同士として仲良くなりたいと思った。
 だから、隣を見上げてそっと口を開いた。

「……あの、もし良かったらさっき飛雄くんが言っていたいつも行くお店、今度一緒に行きたいです」
「え」
「あ。迷惑なら全然!」

 飛雄くんが目を見張ったので私は慌てて言う。そうは思ったとしても、私の独りよがりならば意味がないのだ。

「いや……次があると思ってなかったんで」
「今日、話してて私は楽しかったんでまた話せたらいいなって思ったんですけど」
「今日、楽しかった、んすか」

 少したどたどしく、飛雄くんはやはりどこか驚きながら聞いてくる。

「楽しかったですよ」

 もしかして飛雄くんは楽しくなかっただろうか。私だけがはしゃいでいただろうか。むしろ迷惑だっただろうか。
 だけど、その言葉にふと思う。

「あの、私、もしかして下心あるって思われてますか!?」
「下心?」
「や、なんか自分の言動を振り返ったらそう思われかねない発言だったかなって。でも決して不純な気持ちはなくて、取って食おうとかも思ってなくて、純粋に! ただただ純粋に一緒にいて楽しいと思ったからもっと仲良くなれたらもっと楽しいのかなって思っただけなので!」

 慌てて言う私を飛雄くんはじっと見つめる。その黒い瞳の中できっと何かを考えている。そんな表情だった。
 車両が大きく動いて、手すりを強く握った。触れた肩。ごめんなさいと言うよりも先に飛雄くんが言う。

「大丈夫です」
「え?」
「また飯行くの、大丈夫です。店の場所伝えます。俺も今日楽しいと思ったんで」

 一瞬「No」の意味での大丈夫ですと言われたかと思って焦った。飛雄くんはもう驚いてもおらず、私の知っているいつも通りの表情だった。
 楽しいと思ってくれていた。その言葉が私に安堵と得体の知れぬ喜びをもたらす。美羽さんから飛雄くんの話はたくさん聞いていたけれど、実際、私は飛雄くんの事をほとんど知らない。だけど、それなのにも関わらずそう思ってもらえるのは光栄なことなのだろう。だからきっと、嬉しいのだ。
 地下鉄が駅に止まろうとしている。それは私の降りる駅だった。

「あの、今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました。じゃあまた……また、連絡します……?」

 飛雄くんが首を傾げる。車両が止まって、ドアが開いた。

「あはは。じゃあ、連絡待ってます」

 手を降って地下鉄を降りる。地下鉄は飛雄くんを乗せ去ってゆく。
 待ってますなんて言ったけれど、待ちきれなくてこちらからメッセージを送ってしまいそうだなと私はそっと思っていた。

(22.04.30)