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 名前は朝があまり得意ではない。目覚ましが鳴ってもついつい二度寝をしそうになるし、ベッドが愛しくて堪らない。それでも時間は容赦なく針を進めるから、仕方ないなと学校へ行く準備をするのだ。朝ごはんを食べて朝の情報番組を見て、気付くと家を出る時間になるから慌ててローファに足を入れて家を出る。
 もう少し家を早くでなくちゃいけないとわかっているのについつい毎朝こんな風にギリギリになってしまう。それが自身のダメな所だというのも自覚済みだ。それでも改善の兆しが見えないのだから、怠惰とは良くないものである。ホームに響く「まもなく電車が発車します。駆け込み乗車はお止めください」というアナウンスを無視して今日もまた名前は電車に滑り込んだ。

「セ、セーフ……」

 今日は朝ごはんに時間をかけすぎた。誰にも聞こえない、本当に小さな声で安堵して、名前は空いている席に座る。車両は割りと空いていて、この時間はサラリーマンと学生がほとんどだ。これが名前の1日の始まり。流れるような毎日の1部。今日も変わらず彼女の1日が始まる。


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 夏の香りが少しずつ強くなる。肺を満たす空気。木々の木漏れ日。真新しい感覚を五感で覚える、冬服から夏服に切り替わるような頃。

「明日、光太郎くんの試合観に行くの?」

 リビングでテレビを見ていた名前に声をかけたのは母親だ。名前のいとこである木兎光太郎は梟谷学園バレー部のエースである。バレーに特段興味があるわけではなかったけれど、たまたま近くに出かける用事があったことと、久しぶりに応援に行ってもいいかもしれないという気まぐれから、次の休日には木兎の試合を観に行くことになっていたのだ。

「一応行くつもり」
「あ、じゃあこれついでに渡しといてよ」

 そう言って母親が渡してきたのはタッパーだった。差し出されたタッパーに名前は顔をしかめる。その表情から名前の考えを悟ったのか母親は続けた。

「伯母さんから借りてたの。光太郎くんに渡して返してきてよ」
「えー……」

 嫌だよ。めんどくさい。そもそも試合で空のタッパー渡すとか意味わかんないよ。
 そう思ったけれど結局は持っていかされる羽目になることを知っているから口には出さなかった。なぜなら、母親とはそういう生き物だからである。
 名前は抵抗も諦めてタッパーを受けとる。彼氏に会うならばタッパーに差し入れくらい入れるが、相手はいとこの光太郎くんだ。連絡だけで良いだろうと名前は木兎に連絡を入れた。

『明日の試合、観に行くつもりだけどお母さんがタッパー渡したいって言うから渡すね』
『タッパー? 差し入れ?』
『空のタッパーです』

 念のためだ。それと光太郎が空のタッパーを渡されて落胆しないためでもある。これで渡し忘れることもあるまい。
 密やかに顔を覗かせている、恋の断片に名前が気付くことはない。


△  ▼  △


 翌日、試合へ足を運んだ名前の手にはきちんと空のタッパーが入った紙袋があった。到着が少し遅れてしまったけれど、梟谷学園の試合予定を確認して2階のギャラリーに行く。
 梟谷は強いから目立つし観覧者も多い。喧騒に耳を傾けながら名前は眼下にあるコートから木兎を探す。木兎は良くも悪くも目立つ人だ。すぐに木兎を見つけることができる。
 ああ、今日も光太郎くんは光太郎くんだな、と思った。1つ年上のいとこ。異性だけど年上だけど話しやすいし楽しいからと、名前は木兎が人として好きだった。
 試合の決着がつき梟谷に勝利すれば名前の口角も上がる。今日の試合はここまでで、明日は来る予定はないから帰る前に母親に託されたタッパーを渡さねばならない。
 名前は2階からロビーへ移動し梟谷の団体が通るのを待ったけれど待てども待てども目当ての人物は現れなかった。連絡したのに、と携帯を確認して音沙汰もないことを悟ると場所を変えようと踵を返す。
 その時だった。人にぶつかり、慌てて名前は謝ろうとしたがそのジャージを見て気付いた。梟谷の人だ。知らない人だけど、どこかでみたことある気がする。謝るよりも先にそんな事を考える名前に、ぶつかった男は言う。

「すみません。大丈夫ですか?」

 それは名前が思うよりも、心地よく彼女の耳に届いたのだった。

(16.01.16)