02

「すみません。大丈夫ですか?」

 その声にはっとして名前は我を取り戻す。

「ご、ごめんなさい。大丈夫です」

 目の前の人が自分の顔を見た瞬間とても驚いた顔をしたのを名前は気付いた。何かあったのかと聞こうか迷ったけれど、この千載一遇のチャンスを逃してはいけないと考えた名前は次の瞬間には違う事を尋ねていた。

「あ、あの。光太郎くんを」

 この人なら木兎の居場所を知っているはずだとその名前を口にすれば、それを遮るように明朗快活な声が届く。

「名前〜! と、赤葦?」
「あ、光太郎くん」
「木兎さん」

 2人の声が重なる。赤葦の、どうして木兎さんを知っているんだと言いたげな視線に名前は苦笑いするしかなかった。

「2人で何やってんの? え、知り合い?」

 事を知らぬ木兎は暢気な様子で問いかける。違う、光太郎くんをずっと待ってたんです。と名前が言うよりも先に、赤葦が口を開いた。

「俺がぶつかったんです。それより木兎さん、知り合いですか」
「俺のいとこだ」
「いつも光太郎くんがお世話になってます。ぶつかってしまってごめんなさい」
「いえ、こちらこそ」

 赤葦の視線は逸らされることなく名前の方を向いていた。表情から読み取れる感情は少ない。むしろ何か粗相をしてしまったんじゃないかと名前が不安になるくらい、赤葦は無表情に近かった。
 2人の思っていることなんて微塵も知らない木兎だけが快活な声のまま、名前に声をかけた。

「そういやタッパーは?」
「あ、そうそう。そのために待ってたんだ。はい、これ。あと試合お疲れさまでした。すっごくかっこよかったよ! 明日も頑張ってね」

 木兎は満更でもない表情を浮かべて名前から紙袋を受け取る。

「名前、この後帰んの?」
「うん、帰る。明日は私も部活あるし」
「そっか。じゃあまたなんかあったら連絡するわ。今日はありがとな!」
「またね、光太郎くん」

 手を振り家路をつこうとする名前の隣で赤葦は意を決したように声をかけた。とても控えめな声は木兎とは正反対だ。

「……あの」
「は、はい」

 声をかけられたことに驚いた名前だったが、出来る限り平然を装って答える。改めて見つめて、どこかで見たことがある気がすると思ったけれど、それがどこなのかは一向に思い出せないままだ。

「いつも……」
「いつも?」

 見つめ合う視線。こんな瞬間を赤葦は想定すらしていなかった。

「……いえ、何でもないです。引き留めてすみません。気を付けて帰ってください」

 結局、言うべき言葉も言いたい言葉も見つけられなかった赤葦はそれだけを言い残し、名前の側から立ち去った。
 一体今のはなんだったんだろう。なぜ呼び止められたんだろう。呆然と立ち竦みながら赤葦の小さくなる背中を見つめる名前が思うことはそれだけだ。
 最後に角を曲がる赤葦がもう一度名前を見る。視線に気付いた名前の身体は固まったけれど、不思議とその視線は名前を不快にも不安にもさせなかった。


△  ▼  △


 その瞬間のことを名前が再び思い出すことになったのは、週明け月曜日の朝だった。
 赤葦のことをすっかり忘れた名前はいつものように電車へ駆け込む。乱れた息と髪を整えて空いている席を探したその時だった。

「……あ」

 名前の目に飛び込んできたのは1人の男子生徒だ。梟谷の制服。しかし、その制服がなくとも名前は彼が誰であるかを知っていた。なぜなら彼は先日会ったばかりの人物だったからだ。赤葦。そう、赤葦と光太郎くんは言っていた。ああ、そうだ。どこかで見たことある顔だと思っていたけれど、ここだ。毎日、通学の電車で会っていたんだ。
 名前の視線に気付いた赤葦は驚いて、頭を下げた。つられるように名前も頭を下げる。これは、声をかけた方が良いのだろうか。迷う名前は赤葦の隣の席が空いていることに気付く。隣に座っても良いのだろうか。誰に訊ねるでもない疑問は名前が自分で解決するしかない。ちょっとみません。そんな風に思いながら赤葦の隣に腰を下ろせば、それはいつもの通学が形を変える朝になるのだ。

(16.01.15)