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思い出せなくなるその日まで



「バカ!もうあんたなんか知らない!」

木曜日の午後、半日で仕事を終えて喫茶ポアロで遅めの昼食を頬張っていると、よくドラマで見る光景が目の前で広がっていた。
女の子が男の子の顔に平手打ちを喰らわし、さっさと喫茶店から出て行く。男の子は慌ててお金をレジの上に置いて彼女を追いかけて行った。
二回、荒っぽく鳴ったドアベルが鳴り止んだ頃には、店内の客は私一人になっていた。

男女の別れというのはなかなかうまくいかないなぁ、なんて私はコーヒーを啜りながらぼんやりと考えた。別れたら二度と会わない、話さないという元カップルが圧倒的に多いのだ。友達に戻れるのはレアケース。

私も、高校生の時に少しだけ付き合った人がいた。今から思えば、思い出の中のゼロに少し似ていたのかも知れない。
同じテニス部の同級生だった。テニスでこんがり日焼けをしていて、少し色素の薄い髪。告白は彼の方からで、何故OKしたのかは今となっては自分でもよく分からない。
零ほど器用ではなかったが、とても穏やかで優しい人だった。私の試合には必ず帯同し、何かと世話を焼いてくれていた。

「なんで、別れたんだっけ…」

ぽつりと呟いた私の一言を、零…もとい透さんが聞き逃す訳がなかった。

「別れた?」

透さんが人一倍嫉妬深いのは自分が一番よく分かっていたはずなのに、失敗した。私は少し目眩を覚えた。

「あ、いやその…」

「なまえさんは、僕と別れたいんですか?」

言葉は柔らかいのに、目が笑っていない。これは拙い。
というか、今透さんと別れたら私は彼を忘れられずに一生その傷を引きずるだろうことは容易に想像できて、少しゾッとした。

「違うの。今…あの子達を見ていたら昔のこと思い出しちゃって…ごめんなさい」

「へぇ?なまえさんの過去の男性ですか…気になりますね?」

完全に嫉妬のスイッチがオンになってしまった透さんに、私は観念して全て話すことにした。全て、と言っても非常に残念なことに彼の期待に添えるような話は何も出てこない。
そんなの、彼が一番よく分かっているはずだ。
私は透さんと付き合うまで、前述のテニス部の彼としか付き合ったことがないし、それも長くは持たなかったからだ。

「高校生の時、同じテニス部の男子と付き合ったことがあったんだけど…なんで別れたのか思い出せないなって思っただけ」

居心地の悪さに、昼食を食べ進める手が止まってしまう。
本当に別れた理由が思い出せない。確か別れたのは高校三年生になる頃だった。受験勉強に専念したかったのか、それとも何か揉めるような出来事があったのか。

「へぇ?なまえさんはどこが気に入ったんですか?その男の」

透さんは追撃の手を緩めない。流石、日本屈指の公安警察…いや違うか。

「…ゼロに、似てたからよ…」

こんなところで嘘をついても仕方がないので、観念して私はぼそぼそと理由を述べた。

「え?」

虚を突かれたように透さんが私を見た。心なしか、顔が赤い。

「似てたの、貴方に…雰囲気が。付き合ってみたら、全然…違ったけど…」

彼が赤くなるものだから私も急に恥ずかしくなって、コーヒーを無駄にかき混ぜた。

「…ごめん、嫉妬した」

私にだけ聞こえるくらいの小さい声で呟いた彼に、コーヒーをかき混ぜていた手を掴まれる。顔を上げると、思ったより近くに透さんの顔があって思わず仰け反りそうになったが、それは彼によって阻まれた。

「こけてしまいますよ、なまえさん」

先程までとは打って変わって優しい声の透さんは、流れるような動作で私の頬に口付ける。

「〜〜っ!」

「今晩は夜も仕事があって、戻れそうにないので…なまえさんを充電しておかないと」

そう言った透さんも少し頬が赤いのに余裕綽々な態度が少し気に食わなかったが、こうやって彼にキスされたことが嬉しいと思う程度には自分が馬鹿な女であることも分かっているので、これ以上は追求しないことにした。

「そういえば透さん、今週末はごめんね。市の薬剤師会の会合で少し遅くなっちゃうけど…」

ふと言わなければならなかったことを思い出し、私は口を開く。透さんと先に約束をしていたにも関わらず、突然市の薬剤師会の会合が入ってしまい、彼とゆっくり過ごすはずの土曜の午後が潰れてしまったのだ。
彼の都合もあるだろうと先んじてメッセージで連絡は入れておいたのだが、会ったらちゃんと謝っておこうと思っていたのである。

「えぇ、終わったら来るんでしょう?ハロと待ってますよ」

「本当にごめんなさい…」

「貴女の仕事のことに口出しはしませんから…夜会えるだけでも充分ですよ」

透さんは柔らかく微笑んで、先程のカップルが座っていたテーブルを片付ける。

『なまえはテニスを続けるべきだ!』

『こんな実力じゃプロになんてなれない。大学にだって行きたいし、将来は人のためになる仕事がしたいの』

『勿体ないよ。折角テニスの才能があるのに、チャレンジもせず逃げるなんて』

『逃げてなんか、』

『勉強は後からでもできるじゃないか』

『どうして、分かってくれないの…』

ああ、思い出した。
高校三年に上がる前にテニス部を引退して勉強に専念するという話になった時、当時付き合っていた彼は相当に怒った。勿論それは私のことを思ってのことだったのだろうが、私は“人のためになる仕事をする”という夢を応援してくれない彼に随分と腹を立てていた。
どれだけ話し合っても話は平行線で、私達の心はあっという間に離れて行った。

『なまえとは付き合ってるはずなのに、なんだか距離があった』

彼には最後にはそう言われてしまった。
それはきっと私の心の中に居座っていたゼロのせいだろうが、今となっては、確かに付き合っているというには距離があったように思う。
私達は幸いにして二年生も三年生も違うクラスであったので、別れた後は話すこともなく卒業した。彼は地方の大学に行ったというから、もしかしたら一生会うこともないかも知れない。

「なまえさん?どうしました?」

透さんの声にハッとして、顔を上げた。私が急に黙り込んだせいか、彼は洗い物の手を止めて心配そうにこちらを見ている。

「なんでもない。ありがと」

「そうですか…ならいいんですけど」

鋭い透さんのことだ、昔のことを思い出していたことくらい分かっているはずだろうがそれ以上は何も言わなかった。


なまえが、大学生カップルの別れの現場に遭遇したせいで過去の男を思い出したというから、柄にもなく頭に血が昇ってきつく当たってしまった。彼女の“初めて”は、ほぼほぼ僕で占められていることは分かっているのに、だ。
彼女の事になるとつい余裕がなくなってしまう。

さっきなまえが黙り込んだ時、その男との別れの理由でも思い出したのであろう事は想像に難くなかったが、それ以上は追及しなかった。
それはきっと彼女がその男と付き合った理由が“僕に似ていたから”という至極可愛らしいものであったからであり、自分の単純さに僕は思わず苦笑いした。

「なまえさん」

僕は、僕の特製パスタを再び頬張り始めたなまえに声をかけた。

「ん?」

「貴女は気にならないんですか?その…僕の昔の恋人とか…」

そう言うとなまえの目が少し泳いだのが分かる。昔の恋人、と言っても僕はまともに付き合ったことがないので彼女が張り合ったり不安になったりする必要は全くないのだが。

「気にならない、って言ったら嘘になるけど…嫉妬しても仕方ないから聞かないよ」

彼女の方がよっぽど大人だった。僕は心の中で自分の幼さを反省する。

「なまえさんは大人ですね」

「そんなことないよ…今の透さんは、私が独り占めしてるって信じてるから」

なまえは髪を弄りながら笑った。これは彼女が自信がない時にする癖だ。彼女らしい精一杯の強がり。
僕は彼女が可愛くて堪らなくなってしまう。

「ああやっぱり、」

「え?」

「帰ったら、仮眠を取っておいてください。今夜、ハロを連れて釣りに行こうと思ってるんです…仕事の後なので何時になるかわかりませんが…よかったら貴女も」

実は先程出掛けようと決めたばかりの夜釣りになまえを誘おうかずっと迷っていた。最近少し冷えてきたし、彼女は明日も仕事があるので、誘わない方が良いであろうことは頭では理解していたのだが、僕は自分の欲望に負ける形になった。

「わかった」

「また連絡します…午前零時は超えると思うので、ゆっくり寝ていてください。仕事に障りそうなら断ってもらっても構いませんので」

「行く!社会人になってからこんなことしなかったけど…すごく楽しみ」

なまえが可愛い顔で笑ったので、心配事はあっという間に消し飛んでしまう。
僕は上機嫌で明日のデザートの仕込みを始めたのだった。