
なまえが帰りますと立ち上がった時、俺は車のキーを取った。
「送りましょう…女性の一人歩きは危ないですから」
「いえ、すぐ近くなので大丈夫です」
「送ってもらいなよ!僕は博士ん家に泊まるからさ!」
ボウヤが後ろから助太刀をしてくれて、最近不審者が出るようになっているからとしつこく言い聞かせると、渋々彼女は頷いた。
『秀一、私にも截拳道教えて?』
護身用だと彼女が言ったが、俺は教えなかったし真純にもキツく教えるなと言った。
『お前は習う必要はない…俺が守る』
そう言って頭を撫でたら、彼女は猫のように気持ちよさそうに目を細めて俺に抱きついた。
今思えば、こんな事になるなら護身術のひとつやふたつ、教えても良かったかもしれない。
今回はボウヤに無理を言って、なまえと再会できるよう協力してもらったのだった。
約一ヶ月ぶりに会った彼女は、少し窶れているように見えた。
シチューの隠し味に気づいた彼女にヒントを出そうとすると、ボウヤが必死の形相で俺を見ていた。
…ダメだよ、まだ…
彼の唇はそう動く。確かに少し事を急いたようだった。
左利きであることは敢えて隠さず、彼女へヒントを与え続ける。
赤井秀一が表舞台から
『重たい女って思われたくないから秀一には言わなかったけど、決めてたの…もしあの人に何かあったら…一人で生きていくって』
何処へでも行けばいいと、言ったはずなのに。
赤井秀一が殺される前日、俺は急になまえの家を訪れた。
しつこく唇を貪れば、体力のない彼女の息はすぐに上がる。
俺は、背の低い彼女を座った自分の膝の上に抱き上げて口付けるのが好きだった。
『んん、しゅ…いち、しつこ、いっ…ん!』
とろとろに溶けた瞳の目尻に口付けて、俺は目の前の小さな身体を抱きしめた。
『貴方寝てないんでしょう?少し、仮眠取って』
俺の目もとに触れて、彼女は俺を寝室まで引っ張っていく。
『今夜は随分積極的だな』
徒らに襲おうと押し倒したら、彼女は俺の顔を真面目な顔で見上げた。
『貴方が言う今のヤマが終わったら、よ…今はだめ…ね?お願いだから寝て頂戴』
優しい指が俺の頬を滑る。
『君がそう言うなら仕方ないな…』
そう言って、昔なら避けていたはずの恋人同士の甘ったるい時間を過ごした。
彼女を抱きしめて眠ると何倍も深く眠れる気がした。
朝、彼女の目覚ましが鳴るより少しだけ早く起きて、彼女の寝顔をまじまじと観察した。
長い睫毛に、血色のいいピンク色のリップ。寝顔は、二十九歳と言うには少しあどけない。
Tシャツの下には、この可愛らしい顔に似合わぬナイスバディが収まっているのを知っているのだが、今それを暴いてしまえばこっ酷く怒られるのも俺はよく分かっていた。
このまま、時が止まってしまえばいいと願いながら、俺は瞼に焼き付けるように彼女の寝顔を見つめ続けていた。
「あの…沖矢さん?」
過去に想いを馳せていた俺を、不審そうになまえが見上げていた。
「あぁ、すみません…今朝方までレポートに追われていたせいかボーッとして」
「歩いた方が近道なのですが、歩きでも良いですか?沖矢さんお疲れのようですし…私、ひとりで帰りますけど」
遠慮がちにそう言ったなまえの手を、俺は掴む。するりと指を絡めて、わざと恋人繋ぎにした。彼女の手がピクリと動く。
「わかりました、徒歩がご希望ですね」
「ちょっと…!」
何か言いたげに顔を上げたなまえの目線の先に、沖矢昴の車があった。
彼女の目は少し驚いたように見開かれたが、すぐに元に戻る。
やはりあの時、見られてしまっていたらしい。きっとナンバーも覚えていたのだろう。
「こうしていれば、恋人同士に見えますし声を掛けられることもありません…なまえさんのアパートは米花町三丁目でしたね?」
有無を言わさぬ笑顔で彼女を黙らせると、俺は彼女の手を引いて、勝手知ったる彼女の家への道のりを歩き出した。

沖矢昴と言う人はとても変わった人だった。
なぜ、初めて会う私を家に招き入れてくれたのかも、手料理を振舞ってくれたのかも分からない。剰え送ってくれるなんて…この手は余計だが。
「ミステリーはお好きですか?」
「好きです。先日コナンくんがシャーロックホームズを貸してくれて…久しぶりに読みましたが面白いですね」
「では貴女もシャーロキアンですね」
「あの子の前ではシャーロキアンなんて口が裂けても言えませんよ…」
コナンくんがシャーロキアンなら、私はただ本を読んだことがある人だ。
「たしかに…彼と比べるといけませんね」
そう言って沖矢さんは柔らかく笑った。
「あ、ここです。今日は色々とすみませんでした…今度、何かお礼を」
私のアパート前で沖矢さんは少し考えてから、口を開く。
「では今度…本屋に付き合っていただけませんか?」
「本屋さん?」
「えぇ、最近越してきたばかりであまり知らないんですよ…広い本屋がどこにあるか」
「それなら米花百貨店の近くにあるかと」
「ホォー米花百貨店ですか…では今度の日曜日、お付き合い頂けませんか?」
本屋くらいならいいだろう。
別に、恋人になってくれと言われたわけでは無いのだ。
下宿先が火事になって大変だったと言っていたし、嘘ではと思ったのだ。
私は彼との会話に気取られていて気づかなかった。
何故、この繋がれた手が嫌では無いどころか妙にしっくりくるのかを。