
日曜日、家の前まで迎えに行くと頑として聞かない沖矢さんに根負けして、私はマンションの入り口で立っていた。
「お待たせしました、どうぞ」
赤のスバル360が目の前で停まり、助手席の窓が開いた。
彼の車はやはり気になっていたあのナンバーで、私はモヤモヤした気持ちを隠すようにニコリと笑った。
なんとなく決めていた予定を車内で確認する。米花百貨店の駐車場に車を停めてから本屋へ行き、百貨店で昼食を取って駐車代金を浮かす辺りまでは計画を立てることが出来た。
「米花百貨店の駐車場に車を置いてきます。貴女はここで待っていてください」
沖矢さんに本屋の前で降ろされ、私は入り口の傍に立つ。
十分もしないうちに沖矢さんが戻ってきて、ゆっくり本屋を見て回る…筈だった。
私の前を“彼”が通らなければ。
黒い帽子に、黒っぽいマフラーをした男。
癖毛の黒髪に、帽子。
「秀一!」
私は彼を追い掛け、路地裏に入り込んだ彼の服の裾を掴む。
「…」
彼は私を振り向くと、無表情で私を見下ろした。
顔に火傷の痕。爛れてはいるが、確かに秀一の顔だった。
「秀一?」
何故、そんな怖い顔をするの?
怯えた顔をしたのに気づいたのか、秀一は無言のまま私の頬に指を滑らせた。
違う、と本能が警鐘を鳴らした。この男は恐らく、咄嗟に出した手から考えても右利きだ。
秀一が外出先で私と向き合って右手のポケットから手を出すときは、手を繋ぐときくらいだった筈だ。
私は彼を逃すまいと掴んでいた裾を離す。
「貴方…組織の、人ね」
「…」
男は無表情のままだった。
「秀一は貴方達に殺されたのよ!もう、これ以上引っ掻き回さないで…!」
泣いてはダメだと思いながら唇を噛むが遅く、一粒、涙が転がり落ちた。
男の右手は私の涙を拭おうとした…ようだった。
「なまえさん!」
沖矢さんが背後から私の名前を呼んだ。
「沖矢さん…」
「先ほど降ろした場所におられなかったので…どうされました?」
彼は少し焦った様子で此方へ歩いてくる。
「今…知り合いがいたと思ったんですけど、っ…人違いだった…みたいで…」
向き直っても、もう秀一の亡霊はそこには居なかった。
先程は我慢できた涙が、ポロポロ零れ落ちる。
「ホォー?知り合いと言うには随分と入れ込んでいるようですが…悪霊でも見ましたか?」
沖矢さんは私の頭を優しく抱き寄せた。
「貴女が悲しむなら無理に詮索はしません…ただ、僕の胸くらいなら貸してさしあげますよ…」
ボロボロだった。
折角立ち直ったと思ったのに、無遠慮な人に踏み躙られた私の傷口は、また血を流し始める。
ひとりでは立っていられないほどの状態だったので、私はこの優しい青年の申し出に甘えることにした。
「すみません」
どれくらい経ったろうか。ひとしきり泣き終えて、私は彼に謝った。
「構いませんよ…今日はもうやめておきましょうか」
「いいえ、大丈夫です。でも」
「でも?」
「お化粧を直したいので、先に化粧室に行ってもいいですか?」
多分、今の私は酷い顔をしている。こんな酷い状態で一緒に歩くのは彼に申し訳ない気がした。
「勿論、構いませんよ…でも、しんどくなったらすぐに言ってくださいね」
沖矢さんは私の背中を支えてくれる。
書店に入ってフロアガイドを確認し、化粧室がある三階に向かった。
化粧崩れは思ったほどは酷くなかったが、少し腫れた目元を誤魔化すのに少し手間取ってしまった。
「お待たせしました」
「いえ…少し腫れてしまいましたね…」
彼は私の目尻を左手で優しくなぞった。
ぞく、とするが、寒気からではない。
「あの、大丈夫…ですから…」
「では、行きましょうか。貴女のオススメのミステリー、教えてくださいね」
沖矢さんはスマートな動きで私の手を繋いで歩き始めた。
離してくださいと言おうと思ったが、先程待ち合わせ場所から勝手に離れた私にそんなことを言う資格はなかったし、今はその温かい手が妙に私を落ち着かせた。
私のお勧めは、新名任太郎先生の探偵左文字シリーズと、工藤優作先生のナイトバロンシリーズだ。
「ベタな作家さんばかりでお恥ずかしいですが…」
「いえ、探偵左文字シリーズはまだ書籍は読んでいませんから…楽しみです」
昴さんは左文字シリーズの最初の数冊を購入するらしい。
「あら、新刊?」
私は新刊のコーナーに、工藤優作先生の新作が並んでいるのを見つける。
「ホォー…“緋色の捜査官”ですか…」
「面白そうですね…買おうかな」
伸ばした手は、沖矢さんによって止められる。
「僕が買いましょう」
「え、あの…!」
「読み終わったら貸してくださいね」
沖矢さんはまた、有無を言わせない笑顔で言う。
なぜか、この人には逆らえない。
「わかりました」
結局、私の買おうとしていた数冊の本は、沖矢さんによって購入されてしまった。
「ありがとう、ございます…」
お礼を言うと、昴さんは蕩けるような優しい顔をする。それは恋人に向けるような甘い甘い顔だった。
「やっと笑いましたね…貴女は笑っていた方が素敵ですよ」
また、頬を滑った左手にどきりとしたが、私はその気持ちにひっそり蓋をした。