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ものや思ふと人の問ふまで


「諸伏さん…あのね、貴方が言った通り…零さんは紳士でした」

私は諸伏家之墓と書かれた暮石を丁寧に掃除した後、その前でしゃがみ手を合わせる。

「諸伏さんに守ってもらえなくなって随分経つけど…もう、大丈夫だから…心配しないでくださいね」

私の項に、まだ噛み跡はない。
現在、公安部内で私がオメガと知っているのは、黒田管理官と零さんだけ。
バレていないのに噛み跡で態々オメガであることを晒す必要はないという零さんの気遣い…つまり、私がアルファばかりの職場で働き辛くなることを慮ってのことだった。
黒田管理官も、私が公安部で働き続けてくれるならその方が助かると二つ返事で了承してくれた。
幸い、零さんがいるおかげで私のホルモンバランスは医者が驚く程に安定しており、ピルさえ飲み続けていれば日常生活や仕事に支障は来さないだろうと言われている。

『もし…万が一、僕が命を落とすような事があれば、君も死んでしまう…だから今は、まだ…噛めない』

零さんは私が発情期に気分が不安定になり“何で噛んでくれないの”と詰ってしまった時、苦しそうにそう言った。一般的に、番を失ったオメガは衰弱死すると言われている。
ヒート中だろうが完全に理性を飛ばしてしまわない辺り、本当にあの人はすごいと思う。

「秋の扇…というわけではなさそうですね」

「!」

まるで気配を感じなかった。私は聞こえてきた柔らかい声にびくりと肩を揺らし、背後を振り向いた。

「驚かせてしまってすみません。貴女が僕の弟の恋人だったのでは…と邪推したのですが…違うようですね」

この人はおそらく、三十代くらい。“弟”と言ったからには諸伏さんの兄…だろうか。

私が警戒心バリバリでその男性を見ていたのはバレていたようで、彼はとても優しい目で私を見た。

「申し遅れました。姓は諸伏、名は高明、字は名前を音読みにして“コウメイ”。以後、お見知りおきを」

「“2年A組の孔明君!”…」

諸伏さんからその話は聞いたことがあった。少し年の離れたものすごく頭の切れるお兄さんがいて、その彼は大人気の児童書のモデルになったという。警察官をしているとも言っていた。

「はい、いかにも」

どうしても特徴的な口髭に目がいってしまうため分かりにくかったが、よくよく見れば彼の目元は諸伏さんとそっくりだった。

「こういうことを聞くのは良くない、と思いますが…貴女はオメガですね…景光とはどこで?」

流石は兄弟、と言ったところだろうか。私がオメガであることを瞬時に見抜いたのは、諸伏さんだけだった。

「仕事仲間です…」

諸伏さんは、お兄さんはずば抜けて賢いと言っていた。嘘を言ったところですぐバレるだろうし、当たり障りのない本当のことを言えば察して引いてくれるだろうことを願い、私は彼の目を見て伝えた。

「なるほど…それで景光ためにここに。ではこれ以上深くは聞きません…勿論、貴女の名前もね。だがこれだけは確かだ…貴女はものすごい努力家ですね」

お兄さんが諸伏さんの死を知っているということは、零さんが何らかの手段で伝えたということか。

「いえ…諸伏さんがいなければ、今の私はありませんから」

お兄さんの最後の言葉は、オメガながらに公安部にいることを指していた。オメガであることを誰にも言えずにいたら、私は精神的に壊れてしまっていたかもしれない。そうなれば零さんとの距離が縮まることも、公安部で働き続けることも出来なかった。
感謝、という一言では足りないくらい彼にはたくさんの借りがあった。

「そうですか…」

「お礼をする前にこんなことになってしまって…とても、残念です…」

涙は枯れたはずなのに、改めて口に出すと涙腺が緩み、私はグッと唇を噛んだ。

「…景光は磯の鮑だったようですね…」

「え?」

「いや、貴女は知らなくていいことですよ…たまには、景光に会いに来てやってください」

「はい、もちろん」

「いつか…数字一文字の彼にもお会いしたいですね」

「!」

お兄さんの口から零さんを匂わせる名前が出たことに驚いたが、よく考えれば二人は幼馴染であった。お兄さんに零さんのことを話していたとしてもおかしくはない。
少し動揺したのは、おそらく私の目線でバレてしまっているだろう。

「はい。いずれ、必ず…」

「いつ来ても墓が綺麗だと思っていたんですよ」

「そうですか…」

私が来るのは数ヶ月に一度。それはきっと零さんだなと私は笑みを零す。

「あぁ、引き止めてしまってすみません。人を待たせているんでしょう?」

「え?あ…はい、失礼します」

人を待たせてはいなかったが、これ以上話すことも特になかったので私はお辞儀をしてその場を去った。

暫く歩くと、墓地の駐車場に白のRX-7を見つける。

「零さん…」

呆然と運転席を見つめていると、助手席に乗るように彼がジェスチャーしたので、私は大人しく車に乗り込んだ。


珍しくなまえが有休が欲しいというので承認した。
体調が悪いのかと尋ねれば、体調は頗る良いと言うし、発情期は先日迎えたばかり。運命である僕でも、匂いの乱れは感じない。
カレンダーと付き合わせればそれはヒロの月命日であったので、きっとヒロに報告しに行くのだろうと、午前中は“安室透”の仕事があった僕は何も言わずになまえを送り出した。

喫茶ポアロでのシフトを終えて、僕はヒロの墓へ向かった。
案の定、なまえの匂いが微かに香り、どうせなら一緒にと思ったが直後に入ってきたシトロエンCXから降り立った人物のお陰で僕はそれを断念せざるを得ないことを理解する。

それはヒロの兄である長野県警の諸伏高明警部であった。
僕は念のため黒のキャップを目深に被っていたのだが、気づかれないよう更にキャップのつばを下げた。

暫くしてなまえが現れ、案の定僕の車を見て固まった。
手招きして助手席を指すと、彼女は僕の隣に大人しく座った。

「流石…毛利探偵の一番弟子」

座るなりなまえは笑った。

「体調が悪ければ匂いでわかるし、何より今日はヒロの月命日だからな」

「…ですね。先程、諸伏さんのお兄さんにお会いしました」

「それで、僕はここから動けなくなったんだよ…」

そう言うと、なまえはクスクスと笑い始めた。

「なんだよ」

「お兄さんに人を待たせているんだろうって言われて…よく分からないまま戻ってきたら零さんがいて…」

「なるほど…僕が来たのは…嫌だったか?」

「いいえ…すごく、嬉しいです」

なまえは僕の肘掛に置いた手を握ってくれる。ふわ、と彼女の匂いが香って、それが心地いいと感じる。

「君も僕の扱い方を心得たな」

「へ?」

「君が可愛くて仕方ないよ…早くあんな下らない潜入捜査なんか終わらせて、君の項を噛んで僕のものにしたいって思うくらいにはね」

「私だって…でも、“焦りは禁物”でしょう?」

「あぁ…そういえばさっき、ヒロのお兄さんは何か言ってたか」

「私が秋の扇だと思ったら、諸伏さんの方が磯の鮑だったのか、とか…あとは数字一文字の彼にも会いたいと仰ってました」

「そうか」

秋の扇とは、夏には重宝に使われていた扇も、秋になった途端見捨てられるの意で、男に見捨てられた女のことを指す。
磯の鮑は、正しくは“磯の鮑の片思い”。磯にいる鮑は一枚貝であることから、片方だけが一方的に恋をする“片思い”の片にかけた言い方だ。
ヒロに置き去りにされた恋人かと思ったら、ヒロが片思いしていた女だったかということだ。
ヒロこそ、本当に分かりやすい奴だ。

僕が零した笑みに、なまえは不満げに頬を膨らませる。

「分からないの、私だけ!?」

「いいんだよ、分からなくて…僕のことを言っていたってことは…あの封筒は無事に届いたんだな」

「やっぱり、零さんでしたか…お兄さんは諸伏さんの所属…分かってたみたいですよ」

「流石は“2年A組の孔明君!”だな」

「えぇ」

「帰ろう…抱きたくなった」

そう言って口付ければ、なまえの匂いが少し甘くなった気がした。


「水魚の交わり…とはまさに」

白のRX-7のエンジン音が遠のいてから、私は墓地の駐車場へ向かった。
水魚の交わりとは、“魚は水があってこそ生きていられる”という例をもって“欠くべからざる友の存在”を喩えたもので、景光と彼らが互いにそのような関係であったことは兄として喜ぶべきであろうと、少し頬が緩む。
あの車の男は、やはり先程の女性の連れであったようだ。しかし彼女は車の中に置いておいてもいいような荷物も全て持ってきていたようだったし、男の方が心配で迎えにきたと言うのが真実だろう。
景光の墓を綺麗に磨いてくれた彼女からは、本当に僅かではあるがオメガの香りがした。景光と職場が同じ、ということはおそらく公安。あんなにアルファだらけの職場で、女のオメガ一人では本当に心細かっただろう。せめて景光が彼女の支えになってやれてよかったと、兄として誇らしく思う。
景光は昔から、人の気持ちには人一倍聡い子だった。大方、あの封筒を届けてくれた“0”が以前私に『友達ができた』と嬉しそうに話してくれたゼロ君であり、その彼とあの女性が運命の番だと分かり、景光は身を引いたというところだろう。

「忍れど色に出にけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで」

ふと思い出した百人一首の和歌を呟いた。
運命の番とは互いの匂いで本能的に分かるものだという。
星の数ほど人が溢れているこの世界で、運命の番に出会う確率は恐ろしく低いといえる。
その一組の仲を取り持ったのが自分の弟であることを誇りに思うと共に、彼女が自分の弟と番ってしまったおかげであとは死を待つだけの衰弱したオメガではなかったことに安堵した。

嘉偶天成かぐうてんせい…貴方達は景光の分まで幸せになるんですよ…」

私は懐に仕舞っていた景光のスマートフォンについたHの傷を眺めながら、シトロエンCXに乗り込んだ。

※嘉偶天成…天の働きによって、よい配偶者と自然に巡り合うこと。