1-EX0.



君の前ではただの男


「失礼します…諸伏さん?」

午前三時。
仮眠を取るから、一時間経って起きて来なければ起こしてくれという諸伏さんの言いつけに従って、私は仮眠室の扉をノックして中に入った。

「諸伏さん、起きてください。一時間経ちましたよ」

諸伏さんはぐっしょりと汗をかいて、綺麗な顔を歪めていた。瞼はしっかり閉じられているが、悪夢に魘されているのだろうか。

「う…」

「諸伏さん?」

ガバッと諸伏さんが起き上がった。仮眠を取ったにしては酷い顔である。

「だ、大丈夫ですか…?」

「あ…なまえちゃんか…ごめん…」

「お水…飲むかなと思って持ってきたんですけど…」

「あぁ、貰う。ありがとう」

諸伏さんは無理やり笑顔を作って私の手からペットボトルの水を受け取った。痛々しい、と思うくらいの顔であったので、私は自分がここにいてはいけないようなそんな気持ちになる。

「あの…私、外した方がいいですか?」

「どうして?」

「だって…すごく辛そうな顔、してます…」

刹那、腕を掴まれ、私の身体は加えられた力のまま諸伏さんの上に倒れこむ。

「も、諸伏さ…」

「ごめん、なにもしないって誓うから…少しだけこうさせて…」

諸伏さんは私の身体を抱きしめ、肩に顔を埋めた。密着したことで、彼が少し震えているのが分かる。
私は無意識に彼を抱き返し、少し寝癖のついた髪を撫でた。

「!」

「あ…ごめんなさい…」

驚いたのだろう、ピクリと彼が反応して、私は撫でていた手を止めた。目上の男性の頭を撫でるなんて失礼極まりないことだ。

「びっくりしただけだよ。できればそのままがいいな…落ち着く」

そう言われては、撫で続ける他なかった。暫くしてすぅすぅと小さい寝息が聞こえてきて、万が一誰かに覗かれたらどうしようという気持ちと、寝かせてあげたいという気持ちで板挟みになる。

困ったなぁ起こすべきかと悩んでいたら、いつの間にか三十分ほどが過ぎていて、私が起こすよりも前にもぞもぞと諸伏さんが動いた。

「悪い…寝落ちた」

「いえ…諸伏さん、大丈夫ですか?」

「落ち着いて寝られてスッキリしたよ…ありがとう」

諸伏さんがそう言うように、先程よりも顔色が良く見える。

「変なとこ見せて悪かった…昔のトラウマでたまにこうやって魘されて起きることがあるんだ…」

「いえ。私は大丈夫ですから…今日はもう帰られますか?」

「いや…ゼロもいることだし、あいつと一緒に片付けないといけない仕事が沢山ある。戻るよ」

「分かりました」

先に立ち上がった私の乱れた髪を諸伏さんが直してくれ、私達は連れ立って仮眠室から出る。

諸伏さんの只ならぬ様子に気取られて気づかなかった。そんな私達の様子を見ていた人物がいたことに。


ヒロが仮眠を取りに行ってから一時間して、みょうじがデスクから立ち上がった。てっきり起こしに行くのだろうと思っていたがなかなか帰って来ず、戻ってきたら淹れてもらおうと思っていたコーヒーを、痺れを切らして自分で淹れることにした僕は、仮眠室から出てきた彼らを目撃した。

ヒロもみょうじもいつもと様子が違う。彼はやってしまったという顔をしているし、彼女は少し気まずそうだ。出て行ってどうしたのかと聞ける雰囲気でもなく、僕は気配を消して二人を見守る。

「なまえちゃん、ごめんな」

「いえ、いいんです…」

そんな会話が遠くで聞こえる。ヒロは謝るようなことをしたのだろうか?僕はもやもやしながらコーヒーの入ったマグカップを握りしめた。

「…苦い」

気も漫ろで淹れたコーヒーは、粉が多すぎたのか異様に苦く感じた。

「あの…降谷さん?」

「!」

驚いて振り返るとみょうじがいた。いつもの僕なら彼女の気配に気づかないはずがないのに。

「みょうじ…」

「大丈夫ですか?目の下にクマが…」

みょうじは心配そうに僕の顔を覗き込む。
もしかして、ヒロは彼女に告白でもしたのだろうか?
邪推しながら僕は彼女の様子を観察した。

着衣に乱れた様子はないが、髪は括り直したようだ。ポニーテールの高さが先程より少し高い。

「あぁ…すまない、コーヒーを淹れようと思ったんだが寝ぼけて濃く淹れすぎたようだ…淹れ直してくれないか」

「構いませんよ。マグカップ、貸してくださいな」

みょうじは僕の手からマグカップを受け取り、手際よく湯を沸かす準備をしてからマグカップを洗い始めた。
括られた髪の隙間から見える頸と甘い香りに、睡眠不足のせいかムラムラする。このままではまずい。あの様子では、もしかしたらヒロの彼女になったのかも知れないのに。

「もしお疲れでしたら、私の出来る範囲で仕事を片付けておきますが…」

「そんなにヤワじゃないさ…君こそ大丈夫か?」

僕はみょうじが豆を挽く姿をぼんやり眺める。先程感じた異変はすっかり消えていた。

「私は…現場じゃないですから降谷さん達ほど疲れてませんよ…あ!ちょうどよかった。降谷さんのために買っておいたんですよ、このブルーマウンテン」

いい匂いでしょう?とみょうじは振り返って挽いた豆を僕の鼻先に持ってくる。
すぅっと息を吸い込めば、品質の良い豆の良い香り。

「ハイローストか…よく覚えてたな」

コーヒーの入り具合は、酸味と苦味のバランスがいいハイローストが好きだと一度だけみょうじに漏らしたことがあった。

「降谷さんは特に公安部こっちに来られる頻度が低いですから…いらっしゃった時くらいは好きなものをお出ししたいんですよ…私に出来るのはそれくらいですし」

みょうじはコーヒードリッパーを取り出し、コーヒーの粉を移した。
夜中の給湯室に不釣り合いな、ゆったりとした時間が流れる。この場から逃げるつもりでみょうじにコーヒーを頼んだくせに、彼女の優しい空気に包まれていたいと僕の本能が言っていた。

「ミルクとお砂糖、どうされますか?」

「折角の高級コーヒーだ、ブラックでいただくよ」

「ふふ、もし必要なら言ってください」

みょうじはコーヒーを淹れ終えると、僕にマグカップを渡して片付けを始める。僕がさっき自分で淹れたコーヒーとは比べ物にならない芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。

「そういえば、ヒロは?」

僕は一番気になっていた話題をやっと口に出す。これでみょうじが気まずい空気を出すようであれば、ヒロと彼女の間に何かあったのだろうと邪推に終止符を打つつもりであった。

「あ、そういえば諸伏さん、降谷さん待ちでした…引き止めてごめんなさい」

けろっと言い返したみょうじに、僕は拍子抜け。

「へ?」

「早く戻ってください、私が怒られちゃう」

みょうじの言葉に背中を押されるようにして、給湯室を後にする。

「ゼロ」

ヒロは寝癖はそのままにデスクに座っていた。解いたネクタイが机の上にくしゃくしゃになって置かれている。

「ヒロ…悪い、みょうじにコーヒー頼んでて」

「やっとか」

悪戯っぽくヒロが笑うので、僕は訳がわからず首を傾げた。

「なにが?」

「そのコーヒー。お前が帰ってきた時用だってなまえちゃんずっとストックしてたんだよ」

「それは…悪いことしたな」

僕は手元のコーヒーを眺めた。ハイローストのブルーマウンテン、少し濃いめ。
全て僕の好みと合致する。

「しかも、置いとくとコーヒー豆に油が浮いて酸化するからってこまめに買い直してた」

「…」

コーヒーを一口啜ると、調和の取れた苦味と酸味が舌を刺激し、ふわりと鼻腔から香ばしい香りが抜けた。美味しい。
確かに置いておいたと言うには酸化した味はしない。

「さっき、ちょうどよかったって…」

「なまえちゃんらしいよ。ゼロが気を遣うと思ったんだろ…」

「…そう、か…」

僕はみょうじの用意してくれたコーヒーをもう一口啜った。
彼女の気遣いはとても嬉しいが…僕のためだけに?何故だ?

「だからこれからはさ、ちゃんと公安部ここにも顔出せよな」

「ああ」

暫くしてみょうじが帰ってきて、僕達は他愛もない話に花を咲かせた。
潜入捜査はいずれ終わるだろうが、公安部での三人の、この緩やかなひとときはずっと続くと思っていた。

暫くして、ヒロが殉職した。僕の、目の前で。


カチッ、と電気ケトルの湯が沸いた音がして、僕は薄っすら目を開けた。

時刻は午前七時を少し回った頃。
隣にあった温もりはなく、代わりに美味しそうな匂いが漂う。

「なまえ」

「あ、起きましたか?おはようございます」

キッチンに向かうと、僕のTシャツに“着られている”状態のなまえが振り向いた。手には菜箸を持っていて、どうやらほうれん草のお浸しを盛り付けるところらしい。

「おはよ」

僕はなまえを後ろから抱きしめ、未だ噛むことが出来ない頸に唇を寄せた。僕を惑わす甘い甘い香りに、いつも理性が持っていかれそうになる。

「どうしたんですか?」

「昔の夢を見た…君が僕のためだけに買い置きしてくれていたコーヒーを、初めて淹れてくれた日の夢」

「本当、諸伏さんったら口が軽いんだから…」

「あの時は…もしかしたら君とヒロが付き合い始めたんじゃないかと思ってた」

「まさか。あの時は起こしに行った諸伏さんが魘されていて心配で…落ち着くまで一緒にいただけですよ。諸伏さんのことは零さんの方が知ってるでしょう?」

「僕が中々公安部に顔を出さないから、気を遣ってくれたのかと…」

今なら分かる。気になっている異性だからこそ、その人の好みも覚えるし何かしてやりたいと思うのだ。
まさか僕のような愛想の悪い人間が、女性…ましてやなまえのような完璧な人間から好かれるとは全く思っていなかったので、僕専用の買い置きの話を聞いても僕のことが好き自惚れという考えは全く思いつかなかったのである。

「零さんにしかしてませんよ…自分のことになると自己評価が低いっていうか鈍感ですよね…」

なまえは朝食の盛り付けを終え、食後に飲むためのコーヒーの準備を始めた。あの時と同じ、ハイローストのブルーマウンテン。

「悪かったよ。なまえを疑うわけじゃなくて、信じられなかったんだ…君みたいな美しい人が、僕に気があるなんて」

「またまた…今日は安室透の日ですか?」

「いいや、君を存分に甘やかす日だ」

「きゃ、」

僕はなまえを横抱きにした。重いから下ろしてくださいなんてジタバタする彼女が可愛すぎる。重くないし下ろす気もない。
朝食が終わったら、一緒に風呂に入ることにしよう。コーヒーはそれからでも許してくれるだろう。

「久しぶりの休みなんだ…今日は公安警察の潜入捜査官の降谷零でも、安室透でもバーボンでもない、みょうじなまえの恋人でいさせてほしい」

「じゃあ…」

「ん?」

「零さん、おはようのキスがまだですね」

なまえが世界一可愛い顔で笑って僕を甘やかす。僕はなまえの唇を軽く啄むと、彼女を食卓の椅子に座らせた。

いただきますと二人で手を合わせ、朝食を摂る。
きっと、なまえを甘やかす日だと言ったが僕が甘やかされて終わるのだ。僕は彼女の笑顔を見ながら心の中でトリプルフェイスのスイッチを切り、ただの男に戻るのだった。