1-EX2.



人生の扉


零さんと私は透を連れて喫茶ポアロに来ていた。透は一歳を過ぎ、工藤くんと蘭ちゃんは大学生になっていた。

「ら、ちゃ!」

「透くん大きくなったねぇ!かぁわいい〜!」

若くて美人な、しかも巨乳のお姉さんに抱っこされて透はご満悦だ。

「し、ちゃ!」

欲張りな透は、抱っこされた蘭ちゃんの腕の中から隣に座る工藤くんにも手を伸ばす。

「俺も?」

「う!」

「ったくしゃーねーな」

工藤くんはそう言いながらも目尻を下げて、透を抱っこしてくれる。

「ごめんね、まだ“ん”が言えなくて…」

「いえ、それは仕方ないですよ…まさかお名前が“透くん”になるとは思ってませんでしたけど…うわ、」

透は大好きなお兄ちゃんの顔目掛けて手を伸ばし、それを避けた工藤くんのネクタイをがしりと掴んだ。

「ごめんね…ほら透、お兄ちゃん苦しいって…離してあげて。名前は色々候補出したんだけど結局どれもしっくりこなかったのよね…」

「瞳と髪の毛はなまえさんで、他は安室さん似なんですね!」

蘭ちゃんは工藤くんの腕の中にいる透を覗き込み、頬をプニプニと押した。

「可愛いでしょう?あの人に似てよかったと思って」

「安室さんは、顔が奥さんに似なかったって不満気でしたけど」

工藤くんはネクタイを外し、透に渡してくれる。透は短い手でネクタイをブンブン振り回しご満悦だ。

「いいのよ、こんな顔に似なくて」

「おっ、大きくなったな」

工藤くんの隣から顔を覗かせたのは赤井さん。そういえば先程カラン、とポアロのドアベルが鳴っていた。

「赤井さん!いつこちらに?」

「今朝だよ…工藤くんに連絡したら降谷くんの子供に会うと言うから見にきたんだ」

よーし、と赤井さんは透を抱き上げた。零さんも高身長だが、更に高いあの位置からの眺めはさぞかしいいだろうな、と私はつまらないことを考える。
赤井さんはFBI仕事の都合でアメリカに帰国しているが、度々遊びに来ているらしく、透が生まれた時も、妹に会うついでだと言ってわざわざ出産祝いを持って来てくれた。

「君は透くんだったな」

「う!」

「俺の名前は秀一だ、ほら言ってみろ…しゅ、う、い、ち」

「し、ち!」

「しゅーだ、しゅー…」

赤井さんは透に自分の名前を言わせようと必死である。あの、FBIの泣く子も黙る銀の弾丸シルバーブレッドが。
私はおかしくて笑いをこらえるのに必死であった。

「しゅーち!」

透は他の子よりも喋るのが早く、舌ったらずながらも何とか赤井さんの名前を言えたようだった。

「よーし、偉いぞ…ちゃんと覚えておいてくれよ」

赤井さんが目を細める。あんなに零さんに一方的に嫌われていたのに、嫌な顔ひとつせず組織の壊滅にも協力してくれたし、透のことだってこんなに可愛がってくれるのだ。絶対に悪い人ではない。

「赤井…!」

ポアロのキッチンでお手伝いをしていた零さんが慌てて出てくる。

「零さん!誘拐じゃないんですから…落ち着いて」

私は立ち上がって零さんの腕を掴む。分かっているが昔の癖で思わず反応してしまう彼に苦笑した。

「…すまない」

「久しぶりだな…今日は“安室くん”か?」

赤井さんの発言は、以前零さんが潜入捜査で喫茶ポアロここでアルバイトをしていたことを示していた。

「まぁ、そんなところです」

「ぱぱ!」

透は零さんの名前を呼んだが、まだ赤井さんの視界を堪能したいらしく、抱っこと手を伸ばすことはなかった。

「見てくださいよ、あの透の楽しそうな顔」

「そうだな」

「平和っていいですね」

「あぁ」

「そういえば準備、出来たんですか?」

「抜かりなく」

実は、今日の目的は別にあった。
工藤くんがちらりとこちらをこちらを見たので、零さんも私も頷いた。
赤井さんも座らず透を抱っこしてくれていることから、きっと工藤くんから今日の目的を聞いているはずだった。

「あ、あのさ…蘭…話があんだけど…」

「なによ?急に改まって」

「俺、来年からイギリスの大学に留学しようと思ってんだ…それで…よかったらオメーも一緒に来てくれねーか…」

工藤くんは小箱を取り出す。天鵞絨ビロードで出来た上品なブルーのそれは、中身を伝えるには十分過ぎた。

「結婚は、まだ俺達大学生になったばっかりで稼ぎもないしすぐには無理だけど…俺は蘭と、一緒にいたい」

蘭ちゃんは驚いたように固まっている。
そりゃあそうだ。私だって驚いた。

事の発端は、遡る事3ヶ月前。
無事に大学進学を決めた工藤くんから零さんに連絡があり、私を貸してくれという。
何の話かわからないまま工藤くんに会いに行くと、彼女にプレゼントをしたいがどうしたらいいかというものだった。品物だけは決まっていて、指輪を贈りたいという。

『そうね…まずはアルバイトよ、工藤くん』

私は工藤邸で、上品なウエッジウッドのカップに注がれた紅茶を啜りながら言った。勿論、中身も一級品のダージリンティーだ。

『バイト?』

『そう…指輪は安くても構わないの。ただ、貴方が自分で稼いだお金じゃなきゃ意味がないわ』

『なるほど』

それから工藤くんは家庭教師などコツコツアルバイトをし、お金を貯めた。そして、私と連れ立ってアクセサリー店に買い物に行ったのだった。

『ピンク…』

工藤くんがあるアクセサリーショップの前で立ち止まった。彼が凝視していたのは、ピンクゴールドの地金にハート形のピンクトルマリンが付いた細身の指輪だった。

『あら、いいんじゃない?』

『うーん…』

『“愛の電流”』

『へ?』

『ピンクトルマリンの宝石言葉よ…愛を増幅してくれる働きがあるんですって』

『…』

工藤くんは少し思案するように顎に手を当てた。まるで、この指輪にする理由を探しているような彼の姿に、私は笑みを零す。

『私は非科学的なことは信じない質だし、工藤くんもそうだと思うけど…今回くらい頼ってもバチは当たらないんじゃない?』

『そう…ですね。これにします!』

『サイズはわかってるの?』

『探偵を舐めないでくださいよ…勿論バレないようにリサーチ済みです』

この時だけは自信たっぷりの顔をした工藤くん。
ハートの指輪は深い青の綺麗な天鵞絨ビロードの箱に入れられた。
それが、つい二週間前のこと。
今日のために工藤くんは色々と準備をしてきた。この席の配置だって、真正面だと緊張するだろうから隣にしたらどうだという零さんのアドバイスに従ってのこと。

「…蘭?」

俯いたまま動かない蘭ちゃんに工藤くんが少し不安げに声をかけた。

「っ、行く!」

蘭ちゃんが工藤くんに抱きつく。彼女の瞳からは大粒の涙が溢れているが、それが悲しみではないことくらい彼が一番よくわかっているはずだ。

「あ〜よかったぁ〜…断られたらどうしようかと思ったぜ…蘭、手ぇ出せよ」

「うん…」

工藤くんは天鵞絨ビロードの箱を開け、指輪を取り出した。

「可愛い…」

私達は蘭ちゃんの手に指輪がはまるのを、固唾を飲んで見守る。

「ピンクトルマリンの宝石言葉は、“愛の電流”…まさに二人にぴったりというわけか」

透を抱っこした赤井さんが私を振り返った。この分だと、工藤くんは私と指輪を買いに行ったことも全部彼に話していたようだ。
彼はいつの間にか透にニット帽を取られていて、私は申し訳ない気持ちになる。

「透がやんちゃしてすみません…あの指輪は、一瞬で工藤くんの目に止まったんです。たまにはそういうインスピレーションも大切でしょう?」

「いや、いいさこれくらい。そうだな、あの指輪…彼女によく似合っている」

フッ、とポアロの店内のライトが消える。流れ出したのは、定番のお誕生日の歌。
これは、蘭ちゃんから零さんに依頼があった件だなと私は笑みを零した。
今日は五月四日。工藤くんの誕生日だ。

「新一…お誕生日おめでとう」

「へ?」

「あら、蘭ちゃんのことでいっぱいいっぱいで忘れてたのね…」

「工藤くんらしくありませんね…ほら、十九歳おめでとう」

零さんがロウソクを灯したお手製ケーキを運んでくる。フルーツたっぷり、甘さ控えめ、デコレーションは完璧。彼の力の入れようはもう公安警察どころか喫茶店の店員以上である。透や私のお誕生日ケーキもお手製で、それがお店のケーキより美味しいのだからこの人は手に負えない。

工藤くんはフー!と一息で一と九のロウソク吹き消した。

「蘭さんには、工藤くんから」

そう言って零さんは淡いピンク色の桜の形のケーキを蘭ちゃんの目の前に置いた。

「え?」

「俺も…安室さんに頼んでたんだよ…」

工藤くんは照れ臭そうに頬を人差し指で掻いた。

「思い出の形だから綺麗に作ってくれって注文でしたね」

零さんがそう言ってみんなが笑う。

「いつか、透もああやって女の子に告白するんですかね」

「気が早いな…まだ一歳だぞ」

「工藤くんを見てたら、弟が出来たっていうか息子を見守るような感覚になって」

「僕らみたいに、運命の相手を見つけられるといいな」

「そうですね」

零さんが、暗闇に紛れて私に口付けた。

「!」

「キスしたくなった」

零さんはそう囁いて、悪戯っぽく笑う。

「まま!まーま!だっこ!」

「おっと、透くんどうした?」

零さんが私にちょっかいを出したことに気づいた透がジタバタと暴れ出し、赤井さんの腕から私の方に手を伸ばす。

「赤井さん、重たいのにずっと抱っこして頂いてありがとうございます…透、こっちにおいで」

「まま!」

透は私の首にグリグリと顔を擦り付けた。これは透が甘えたい時のサイン。

「はしゃぎ疲れたみたいだな…僕達はそろそろお暇しようか」

「そうですね、お役目も果たしましたし」

透は、大好きなお兄ちゃんお姉ちゃんと会えたせいではしゃぎすぎたのか、少し眠そうだ。

「じゃ、僕達は先に帰るから…ごゆっくり」

零さんがそう言ってエプロンを外す。

「そうだな…俺も今日は帰るとしよう。一週間は日本に滞在予定だ…工藤くん、また日を改めて会おう」

「皆さん、本当にありがとうございます…」

工藤くんがお礼を言って、蘭ちゃんも一緒に頭を下げた。

「ほら透、お兄ちゃんお姉ちゃんにバイバイして」

「しちゃ、らちゃ、ばいばい!」

「おう、またな透。次はサッカー教えてやるよ」

「バイバイ、透くん」

工藤くんも蘭ちゃんも、透に手を振ってくれる。
透の運動神経が工藤くんに勝るかは分からないが、サッカー少年になったらさらに色黒になりそうだな、なんてぼんやり考えた。

「しゅーちも、ばいばい!」

透は赤井さんの方を見て、小さい手を目一杯開いてバイバイをする。

「!…ハハッ、もう覚えたか!流石、日本屈指の捜査官の息子だ」

赤井さんは透とハイタッチをするように手を合わせると、零さんと私の方を向いた。

「これは俺の勘だが…きっと透くんも君達のようにずば抜けた捜査官になるだろう…いずれ…FBIにスカウトしたいものだ」

赤井さんは零さんを挑発するようにニヤリと笑う。そんなことを言ったら零さんがカチンとくるのは目に見えているはずだ。
全く、男性陣は幼くて困る。

「透はそんなチャラチャラしたところには行かせない」

「零さん、それは透が決めることですよ」

そう言って私が笑いながら零さんの背中を叩くと、彼は不服そうに口を噤んだ。

「赤井さん、失礼します…いずれ透に截拳道、教えてやってください」

「あぁ、透くんは降谷くんに似て筋肉のつき方が良いから鍛え甲斐がありそうだ」

私は赤井さんにもぺこりと頭を下げて、零さんと店の外に出る。

「代わろう。透、パパのとこにおいで」

「ぱぱ!」

透は素直に零さんに抱っこされ、しばらくするとうつらうつらと船を漕ぎ始めた。

「蘭ちゃん、日本で待つって言うかと思いました」

「僕もだよ…きっと工藤くんもそう予想していたんじゃないかな」

零さんは空いた方の手で私と手を繋いでくれる。

「きっと工藤くんが真正面からぶつかったから想いが通じたんですね」

「そうだな…」

今日一日一生懸命工藤くんと蘭ちゃんのサプライズを手伝ってあげた零さんは達成感に満ち溢れていた。

「零さん」

「ん?」

「ハロ、最近私とのお散歩じゃ物足りないみたいなので明日は朝のトレーニングに連れて行ってあげてくださいな」

ハロは私と透と一緒にお散歩に行っているが、ゆっくり歩くだけでは少し物足りなさそうなのだ。それに最近は零さんが透、透と息子ばかり可愛がるのでちょっと拗ねているような素振りも見せていて、それはそれで可愛いのだが少し不憫に思ったのであった。

「贅沢なやつだな」

「ハロは貴方のこと、大好きなんですよ」

「君よりも?」

挑むような目で零さんが私を見る。答えなんて分かっているくせに、だ。この人の悪い癖だと言っても過言ではない。

「うーん、そこは譲りませんけど」

「なまえ」

零さんが路地裏で歩みを止めた。

「はい?」

「キスして」

甘えるように零さんが少し屈む。そういえば、充分すぎるほど彼からキスを与えられていたせいで、最近自分からキスなんてしていなかった。

「…甘えん坊さんですね」

私は少し背伸びをして、零さんと瞳を合わせた。私の大好きな、灰青の瞳は私だけを映していた。それだけでもう死んでもいいくらい幸せな気持ちになる。
どちらともなく目を閉じて、私は彼の唇と自分のそれを重ねた。

「愛してるよ」

「私もです」

私達は再び帰路につく。
きっとハロがお腹を空かせて待っているはずだ。

「透の保育園…明日見に行くぞ」

「あら、リサーチされてたんですか?」

「君がいないと仕事が捗らなくてな…無理を言って紹介してもらった」

「預けるのは寂しいですが、この子も社会性を身につけないといけませんしね」

透が一歳になった時は保育園が一杯で入れなかった。
在宅で出来る範囲のサポートはしているが機密情報など持ち出しができないものも多く、零さんは私が産休を取る前とは比べ物にならないくらい忙しく働いていた。

「黒田管理官に“みょうじはまだか”って言われたよ」

「あら怖い。それは早く戻らないと…保育園決まるまで透を連れて行って構わないなら休み明けにでもすぐ出勤しますけどね」

「…それも考えておく」

私は、緩く繋いでいた零さんの手をキュッと握る。
ふわりと優しく香ったのは、彼のフェロモンの匂い。昔感じた、底なし沼に引きずり込まれるかのような感覚はもうない。私の大好きな香りだ。

「なまえ」

零さんの甘い声が鼓膜を揺らす。顔を上げると、声と同じくらい甘い顔の零さんと目が合った。

「はい」

「今日…僕の予想では透は夜泣きはしないだろう…だから…」

もう、先程の甘い声で言いたいことは分かっていた。付き合う前にも言ったじゃない、それが貴方の悪いところだって。

「理屈なんていらないでしょう?」

そう笑ったら、零さんは虚を突かれたような顔をした後、意地悪な顔をした。

「…そうだったな。今夜は寝かせるつもりはないから、覚悟しておけよ」

まだ指一本触れられていないのに、零さんに可愛がられ過ぎた私の中心は、期待からかずくりと疼く。零さんの仕事と、透の夜泣きとで私達にしては随分と夜の営みをご無沙汰してしまっていた。

「もし…私が嫌って言っても、やめないで」

零さんの形の綺麗な唇が弧を描いて、私にしか見せない顔で微笑んだ。

「あぁもう、君は僕をダメにする天才だな」

「貴方もですよ…」

「それは…光栄だな」

先程より少し強く握られた手を引かれ、夕焼けの空の下を歩く。数年前には考えられなかった平穏と、身に余る幸せがここにある。

私は、零さんと透…大好きな二人の影法師を眺めながら、この幸せが続くことをただ祈った。