番にしたと同時に子供まで授かってしまい、バタバタと入籍の手続きを終えることになってしまった私は黒田管理官に辞職の意を伝えたものの、彼からOKの返事はもらえなかった。
『働き続ければいいじゃないか。みょうじはそれだけの礎を築いている』
項に噛み跡が付いたことや唐突に零さんとの子供を妊娠したことで、同僚達は皆初めこそざわざわとしたようだったが、仕事ができることとオメガであることは関係ないとあっさりと受け入れてくれた。
職場では、ハイネックを着て噛み跡を隠すようにしている。私が逆の立場だったとしても、同僚のセックスライフなんて知りたいものではない。だからせめてもの礼儀だ。零さんはFBIの赤井秀一を思い出すと初めは嫌がっていたが、徐々に慣れてきたようで何も言わなくなった。
「ふ…ふる、や…」
すごく言いづらそうに声を掛けてきたのは私の同期である鈴木くん。
「なぁに?ていうか鈴木くん毎回どもり過ぎ。呼びにくい?」
「呼びにくいよ!あのスーパーエース降谷さんの苗字呼び捨てなんて!!」
そうだった、鈴木くんは零さんの部下だった。
「ははっ、さぁその左手に持っている書類を出したまえ」
ファイルに入った書類は、零さんが作るように命じていた書類だろうなと目星をつけ、半ば強引に受け取った。
「お手柔らかに頼むよ…ていうか、お前悪阻とか大丈夫なのか?」
「うん、意外と落ち着いてる。降谷さんのご飯美味しいからかな?」
妊娠が分かってから、もともと過保護な零さんがさらに過保護になって、料理はおろか掃除や洗濯…全ての家事をさせてくれなくなった。何を隠そう、今日のお弁当も彼特製のスペシャル弁当である。
「え、料理すんのあの人」
鈴木くんはものすごく意外だと言わんばかりに目を見張った。
確かにあの仕事ぶりを見ていたら、家事なんてする暇なさそうに見えるよね〜と私は苦笑する。
「私より上手いよ。お料理だけじゃなくてお洗濯もお掃除もぜーんぶ、いたっ」
コツン!と頭に衝撃を感じて私は振り返った。
「降谷、無駄口叩かず手を動かせ」
振り返った先には渦中の零さん。 私は彼が買ってきた缶コーヒーで小突かれたらしい。痛くはないが、無意識に痛いと口から出てしまった。
「了解です」
「この書類は僕が貰おう。君は有休申請の処理を頼む」
零さんは私が持っていた鈴木くんの報告書をするりと手から抜き取った。
「げ…」
「これまでの降谷の添削で鈴木がどれくらい鍛えられたか、楽しみだな」
少し意地悪な顔をした零さんに、鈴木くんの顔が引きつった。
正直、鈴木くんの文章能力はほぼ進歩していない。今回も私の添削をあてにしていたのは目に見えていて、私は彼の焦りっぷりにふ、と笑みを零した。
「助けて、みょうじ…!」
「生憎、公安部にみょうじという名前の者はおりません」
思わず旧姓を呼んだ同期を冷たく見捨てて、私はデスクに戻った。
降谷さんは褒められるのに滅法弱い。もともと家事一般は卒なくこなすが、私に言われると恥ずかしかったのだろう。ちらりと盗み見た後ろ姿の耳が少し赤い。
「いいな、降谷さんのご飯はさぞかし美味いだろう」
「うわ、か、風見さん!」
「俺も昔…正確には君があの人と付き合い始めるまでは、たまに差し入れにあやかっていたんだがな…パタリと無くなったと思ったら…」
「あ、明日…お弁当多めに持たせてもらえないか聞いてみますッ」
まるで私が風見さんから略奪愛したみたいな言い方で、すごい恨み節だなと私は苦笑する。
「そういえば今日、警視庁に来るんだろう?降谷さんに聞いた」
「あ、はい…警察学校時代の同期と食事の約束をしていて」
「俺も降谷さんと久しぶりに飲みに行けるのは嬉しいが、君が心配でイライラされたらかなわん…根回しを頼むぞ」
「それは大丈夫です…ご安心を」
「は?」
私は、降谷さんが私達と同じお店を予約しているであろうことは予測できていた。運命の番とはこうも分かりやすいものなのか。
風見さんが焼肉店でびっくり仰天するまであと七時間。
同じ区画内にあるとはいえ、入り慣れない警視庁は緊張する。
捜査一課ともなれば、顔のいかつい怖い刑事だらけでさらに緊張した。
「あの…美和子…じゃない、佐藤刑事はいますか?」
その中で珍しく優しそうな顔立ちの男性に声をかけた。
「は?はいっ!佐藤さんですね!あ…えーと、僕は捜査一課の高木渉と言いますが貴女のお名前は…」
「申し遅れました。私、警察庁警備局警備企画課の降谷なまえといいます。彼女とは同期で」
「あ!」
高木と名乗った彼は、私の名前を聞いて思い出したように声を上げた。
「え?」
「いえ、佐藤さんから美人の同期がいるって聞いてたので…すぐ、呼んできます!」
この分だと、美和子の彼氏はこの人だな…と私は零さん譲りの観察ぐせを出してしまう。
「なまえ!」
「美和子〜久しぶり!」
「由美の奴、まだ帰ってきてないのよ〜もう少し待ってくれる?あと十五分くらいだと思うんだけど」
「大丈夫。ねぇさっきの彼…高木くんだっけ。美和子の彼氏?」
みるみるうちに美和子の顔が赤くなり、私は先ほどの予想が大当たりであることを確信する。
「なっ…どうしてわかったのよ!」
「美和子がわざわざ昔のこと話すなんて、彼氏くらいしかないじゃない?私が名乗った時、『あ!』って言ったもの、高木くん」
美和子が高木くんを睨むと、彼はびくりと身を竦めた。
やはりパワーバランスは美和子の方が上か…ごめん、高木くん…と私は心の中で謝った。
「立ち話もなんだから、中入ってよ。貴女お腹大きくなってきたんじゃないの?今日は事件もないから、うるさいこと言われないし、座ってていいから」
「そう?じゃあお言葉に甘えようかな」
美和子に勧められるがまま、捜査一課の部屋に入れてもらう。
「目暮警部、私の警察学校の同期で今は警察庁に所属しているみょうじ…じゃなかった、今は結婚して降谷なまえです。彼女、身重なので少し私のデスクで待たせてやってもいいですか?」
美和子が上司であろう警部に声を掛けに行ったので、邪魔にならないように彼女の少し後ろをついて歩く。
「初めまして、警察庁警備局警備企画課の降谷です」
帽子を被った、小太りの優しそうな警部さんがこちらを振り向いたので、私は挨拶をした。
「おぉ〜君か!警察学校首席卒業の女性は」
「へ?ご存知ですか?」
「知らないわけないだろう!是非捜査一課に欲しいと言ったが却下されてね…」
「そうだったんですか…」
水面下でそんな攻防があったなんて知らなかった。でも、美和子みたいな美人刑事をゲットできたんだから結果オーライよね〜なんて私は独りごちた。
「美和子〜!なまえ〜!」
「あ、来た来た」
美和子の予想通り、きっかり十五分で由美が戻ってきた。
「相変わらず騒がしいわね…んじゃ、行こっか」
目暮警部にありがとうございましたと頭を下げ、高木くんの方を見ると、気になって仕方ないと言う風にチラチラとこちらを見る視線とバッチリぶつかってしまう。
「美和子、由美…一人追加でもいい?」
「いいけど…誰よ?」
「まさか…」
ちょっと鈍い美和子と、すぐに気付いた由美。二人が可愛くて、私はふふ、と笑い声を上げた。
「高木くん。いいでしょう?」
私が高木くんに微笑んで手招きすると、彼はアワアワと焦りながら顔の前で手を振った。
「えぇ?!あ、いや僕のことは気にせずその、」
「美和子と美味しい焼肉…」
「…」
「ほろ酔いの可愛い美和子…」
私の悪魔の囁きに、高木くんはあっさり陥落した。
「い、行きます!是非!」
「ねぇ、結婚指輪見せて見せて!」
「まさかあんたに先越されるとは思わなかったわ…」
焼肉屋にて。
美和子は私の左手を掴み、まだ新しくキラキラしている私の結婚指輪をうっとり眺めている。
由美はといえば、相変わらずのジト目で私を睨んだ。そりゃあそうだ。二人はいつもモテモテだったし、私はオメガであるが故に男性を悉く避けていたのだから。
「ごめんね、いきなりで…立場上言うわけにもいかなくって。ほら、高木くん食べてるの?」
私は焼けたタン塩を高木くんのお皿に乗せる。
彼が心優しい青年であることと、美和子が大好きであること、そして人に遠慮して食いっ逸れる質であることは、この店に入って十分もすれば理解できた。
もし自分に弟がいればこんな感じだろうかと、私は頬を緩める。
「あ、ありがとうございます…そういえば、なまえさんは悪阻とか大丈夫なんですか?」
高木くんは妊婦には不釣り合いな焼肉店での食事を心配してくれたようだが、残念ながらお腹の子の物理的な圧迫で以前より少し食べる量が減っただけに留まっている。
「うん。普段は旦那さんが食事の管理してくれてるから、今は悪阻はほぼ無いかな」
「へぇ〜なまえさんの旦那さんってすごいんですねぇ!」
「でも、あの人なんでも出来ちゃうから、たまに自分が要らないかもって思う時はあるわよ」
「そんなもんですか?」
「私の場合はね」
零さんが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのは本当に有難いし嬉しいのだ。私が彼に必要な人間なのかたまに考える時があるくらいで。
「あら、私は家事苦手だから全部やってくれると嬉しいけど」
「だって、高木くん」
「が、頑張ります!」
「美和子ん家いつも散らかってるもんね〜」
「由美!うるさい!」
私は気づいていなかった。今回零さんがスペシャルゲストを呼んでいたことに。
「美味しい焼肉が食べれると思ったら目的はコレですか」
僕の隣には、工藤くんが座っていた。
彼の協力無しには組織の壊滅には漕ぎ着けられなかった。
風見はといえば、仕事が片付かず一時間ほど遅れて到着予定と先程連絡が入ったばかりである。
「安室さんの恋人はこの国だったんじゃないんですか…びっくりしましたよ、いきなり結婚したとか言うから」
こんな犯罪紛いのこと、とブツブツ言う工藤くんに借りたのは、彼が江戸川コナンであった時に使っていた盗聴器であった。
それをなまえらの予約テーブルの裏にペタリと貼り付けて戻ればそれはそれは呆れた顔で彼に見られたのである。
「ごめんごめん…好きなだけ食べてくれていいから」
「では遠慮なく」
「彼女は僕の公安部での補佐官なんだ…お互い、恋人はこの国だと思っていたよ…同志とでも言うべきかな」
「へぇ…運命の番ってやつですか」
「そうだね」
「ま、マジで?!」
工藤くんは立ち上がらんばかりの勢いで僕に顔を向けた。大人びていても一応高校生なんだなと僕は笑みを零す。
「すごい確率だろう?僕も驚いてるよ…ものすごく仕事が出来る
「正直羨ましいです、そういう絶対的な繋がり」
「“蘭ねぇちゃん”かい?」
悪戯っぽく笑うと、あわあわと取り乱した工藤くんがメニューを落としかけながら僕を睨んだ。
「もう“ねぇちゃん”は余計です…俺は蘭しかいないって思ってるけど…あいつはベータだから…不安だろうなって」
工藤くんが妙に大人びた表情をした。
まだ高校生である彼らの“これから”は長い。工藤くんが運命の番に出会ってしまうことに怯えながら生きるのは、並大抵の覚悟ではできないだろう。
「君が思っていることを、蘭さんにそのまま伝えればいいんじゃないかな」
僕は彼らのことを微笑ましく眺めていた。いずれ父親になり、子供が男の子ならこんな会話をする日もあるのかも知れない。
『でも、あの人なんでも出来ちゃうから、たまに自分が要らないかもって思う時はあるわよ』
ポツ、と工藤くんに借りた眼鏡からなまえの声が響いた。今までは気にもならない会話の内容だったのに、まるでこの言葉だけ切り取られたかのように聞こえてきたのである。
「安室さん?」
工藤くんが不思議そうに僕を見た。
「僕も、彼女を不安にさせていたみたいだ…僕が何でも出来るから、自分は要らないんじゃないかと言ってるよ…」
眼鏡をトントンと叩いて改めて口に出すと、工藤くんは爽やかな笑顔で笑った。
「探偵というのは、人のことは分かっても自分の事はなかなか分からないもんですね」
「そう、だね…」
「安室さんは…もっと奥さんに甘えてみたらどうですか」
「甘える?」
充分過ぎるほど、甘えさせてもらってると思うんだがな…
うーんと唸った僕を見て、工藤くんはほらほらそういうところだと笑った。
「安室さんが、奥さんを独占できるのは今だけじゃないですか」
言われて、はたと気付いた。
子供が出来て舞い上がっていたが、確かに僕が甘えられるのは子供が生まれるまでの半年ほど。
甘える…か。なるほど、いいかも知れないな。
僕は、カルビを頬張る工藤くんを見ながらぼんやりそんなことを考えた。
やっと黒の組織の呪縛から解放されたと思ったら、安室さんに呼び出された。
安室は偽名とはいえ、呼び慣れてしまった名前を今更変えることはなかなか難しく、彼も特に変えろとは言ってこないのでそのままにしている。
高級焼肉の代償に貸してくれと言われたのは、俺が江戸川コナンだった時に使っていた眼鏡。
盗聴器をガムで包んでペタリと奥さんが座るであろう席に貼り付けた彼に、どんだけ過保護なんだよ…と呆れ果てて俺は苦笑いを零した。
奥さんはオメガで、彼らは運命の番だという。俺は、無い物ねだりでその絶対的な繋がりを羨ましく思う。
安室さんも俺も、他人のことは分かる癖に、自分の事には滅法弱い。
俺はカルビと白ご飯を頬張ってペコペコのお腹を落ち着かせた後、博士から借りてきた予備の眼鏡を掛けた。
『なまえさん、もうお子さんの性別は分かってるんですか?』
この声は高木刑事だ。佐藤刑事や由美さん達との同期会だと言っていたが、この分だと羨ましそうに見ていた彼を、安室さんの奥さんが連れてきてあげたのだろうことは容易く想像できた。
『内緒!』
聞き覚えのない可愛らしい声。
この声の主が奥さんか。
『なーに出し惜しみしてんのよ』
『由美、
由美さんも相変わらずだなぁと俺は苦笑した。きっとほっぺたでも引っ張っているに違いない。
『明日、旦那さんの誕生日だから…その時に言おうと思ってて』
隣の安室さんがピクリと反応したのが分かる。なるほど、彼も大切にされてるわけだ。
『あら、そうなの…じゃあそのお披露目とやらが終わったら教えてよね!』
『勿論!ごめん、ちょっとお手洗い』
ガタ、と奥さんが立ち上がったであろう音が聞こえた。それから少しして、足音がピタリと俺らのテーブルの隣で止まる。
「…来てるのは分かってますから…変装までしなくていいですよ」
見上げると、“スゲー美人”が俺達を見下ろしていた。少し膨らんだお腹から察するに、これが安室さんの奥さんだろう。
まぁ、男二人が黒縁眼鏡を掛けていれば嫌でも目立つ…か。
「えっと…貴方は…例の“コナンくん”ね?」
彼女の目線は少し思案してから俺に向けられた。俺が来る事は聞いていなかったようだ。まぁ目的が目的だし、しゃーねーか。
「え、あ…ハイ」
「先日降谷の妻になりました、なまえと言います。もし貴方に会えたら、お礼を言わないとと思っていたの…零さんのこと…本当にありがとう」
なまえさんは、それはそれは綺麗な顔で微笑んだ。
「いえ、俺も安室さんがいなかったら工藤新一に戻れなかったし…その、この度はおめでとうございます」
「ありがとう…今日は好きなだけ食べて帰ってね。ところで零さん、風見さんは?」
「風見なら、一時間ほど遅れると連絡があったよ」
「じゃあ…そろそろ来られますね…私達はあと二時間ほどで切り上げますから…良かったら貴方も一緒に」
そう言ってなまえさんは安室さんの手に触れた。なぁんだ、ちゃんとコントロールされてやんの。
“先に帰る”ではなく“一緒に帰りたい”と言ってくれているのだから、彼にとってこれ以上嬉しい事はない筈だ。
華奢な白い手にキラキラと輝く、まだ新しいプラチナの指輪が眩しい。
「分かった、帰る時は声をかけてくれ」
「もし飲み足りなかったら、先に帰りますから」
「いや、なまえと帰るよ…さっき工藤くんに大切なことを教えてもらったところでね。また後で話すよ」
「わかりました」
じゃあねとなまえさんが去って、俺は安室さんの顔を見た。
「ハハッ、敵わないな」
「何がです?」
盗聴器の件がバレたのかと俺は少し焦る。いや…実際これを貸せといったのは安室さんなのだが…“共犯”と言われれば言い逃れはできないだろう。
「僕がここに来るように仕向けられてたみたいだ」
お店が分かるように安室さんに話をしたのも、彼が心配して迎えに来るであろうことを見越してのことだったと彼は笑った。
「奥さん、“安室さん大好き”って顔に書いてありますよ…」
「工藤くんが言うなら間違いないな」
安室さんは嬉しそうにそう言った。それはいつか彼とIoTテロを防いだ時からは考えられないほど優しい表情であった。
なまえに帰りますか?と尋ねられて、NO以外の返事は思い浮かばなかった。
遅れてやって来た風見は、工藤くんがいることにまず驚き、更に同じ店になまえがいることにも驚き、呆れ果てていた。
「食べれたか?焼肉」
「めちゃくちゃ食べました!美和子に引かれるくらい」
「そうか…ならよかった」
歩くには少し遠い自宅迄の道程だが、なまえが今日は歩いて帰りたいと言うので帰りは徒歩になった。
「あ、風見さんが久しぶりに零さんの手料理が食べたいって仰ってて」
「風見が?」
そういえば、なまえと付き合い始めてから風見への差し入れは無くなっていた。というのも、僕はセロリを好んで食べるが彼は苦手であるので、自ずと頻度が下がっていたことも原因の一つ。
彼女はほぼ好き嫌いなく食べてくれるので、彼女の食事ほど楽なものはない。
「はい、それで明日のお弁当…少し多めに作っていただけませんか」
「分かった…ただ、届けるのは僕が行くから」
「それだと風見さんが恐縮しちゃいますよ」
「いいんだよ、それくらいの方が」
僕がそう軽口を叩いて笑うと、なまえも頬を緩ませる。
「あの」
「あのさ」
二人して声が被り、僕達は顔を見合わせた。
「じゃあ、零さんから」
「わかった…さっきの工藤くんの話なんだけど」
「はい」
「僕達二人だけの時間はあと少ししかないって言われて…確かにそうだなと思った。僕が君に思う存分甘えられるのも、残り僅かなんだって」
「零さん…甘えてるんですか?あれで?」
なまえが驚いたように僕を見た。“よくわからない”と顔に書いてあると感じる程度には、彼女は分かりやすい。
「なまえとの子供が出来て凄く嬉しいし、舞い上がって君に対してすごく過保護になっている自覚はあるよ。でも、僕は君がいないと生きていけない…これは常にベースにあるんだよ…覚えておいて」
「ほんと?」
「信用できない?」
「零さんは一人で器用に何でもこなす人だから。たまに私なんて…って思います」
「何でも器用にこなせる理由は…君だよ」
僕は繋いだ手の甲をするりと親指で撫でた。僕がなまえといることでどれだけ救われているかなんて、彼女には分かるまい。黒の組織への潜入捜査だって、彼女がいなければ僕は乗り越えられなかった。
「だから、あと半年…思う存分甘えるし、なまえのことも甘やかすから覚悟しておいて」
「ふふ、楽しみです」
「ところで、君の話は?」
そう聞き返すとなまえが少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「あの、本当は明日にしようと思っていたんですけど…美和子達と零さんの話をしていたらどうしても言いたくなって」
「うん」
「子供のこと…なんですけど、この間の検診で性別がわかって…男の子ですって」
ぎゅう、となまえに握られた手を僕は握り返す。
「そうか…僕はどっちでも嬉しいけど…男ならきっと君に似て綺麗な顔立ちになる。楽しみだな」
「えっ、零さんに似てもらわないと困ります!」
大真面目な顔でそう言うなまえが可愛くて、僕は彼女の額に口付けた。
「ごめんなさい、明日のお誕生日祝いのサプライズ発表にしたかったんですけど…」
「いや、充分だよ…嬉しい。どうせあと数時間もしないうちに日付が変わるしな」
「零さん」
「ん?」
「行き届かない妻ですが、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ。早く会いたいけど、ママの取り合いはしたくないな?“透”」
「透?」
「仮の名前だよ。僕達にとっては思い出深い名前だろう?」
「“透けてて何もない”のではなく、貴方のように“澱みのない透き通った心の持ち主”であって欲しいですね」
それはいつか、コナンくんに正体がバレそうになった時に僕が咄嗟に吐いた嘘を指していた。
「透…いいかも」
「だーめ。この子にとっては一生ものなんですから…これからゆっくり考えましょう?」
存外あっという間に着いたアパートの前で、なまえが鞄から鍵を出してドアを開ける。
この部屋には沢山の思い出が刻まれている。
警察官になった時。
黒田管理官から潜入調査を言い渡された時。
なまえが公安部に配属されてきた時。
大切な仲間を失った時。
ハロを拾った時。
なまえと恋人になった時。
黒の組織を壊滅させた時。
なまえと番になった時。
なまえと婚姻届を書いた時。
特別な時が増えていく。
あんなに帰るのが憂鬱だったこの部屋も、ハロが来て、なまえと付き合うようになってどんどん好きになった。
これからも沢山イベントが増えていくだろう。
運命なんて信じない質だが、なまえのことだけはそうであって欲しいと切に願う。
僕は玄関の鍵をかけて彼女を思い切り抱きしめた。