夏の夜と彼

 9.

「おかえりー」

「ただいま……」

ドアを開けると、青年が振り向いた。
さっきまで疑っていた相手なだけに、少し気まずい。
あと、そんないい笑顔を向けないで欲しい。
勘ぐっていた自分が恥ずかしくなる。

青年は椅子を窓際へ移動させ、外を眺めていたらしい。
ずるずると椅子をテーブルに寄せ、早く食べようぜ、と私を促す。
テーブルには、先程の大き目のパンと二本の瓶牛乳、そして幾つかの桃が置いてあった。
流石にここまで来て、食べ物に毒が盛られているのかも、とは考えなかった。
素直に頂くことにする。
席に着き、私から話を切り出す。思えば、私から話したのは初めてだ。

「あの、ありがとう」

「え? それはさっき聞いたぜ?」

「ううん。食べ物も、着る物も、泊まる所も……。本当に助かったの。ありがとう」

そう言って、私は頭を下げた。
きちんとお礼を言いたかった。
何度お礼を言っても足りないだろう。
彼に出会わなければ、私はきっと、野垂れ死んでいたのだろうから。

「ごめんなさい。こんなに迷惑を掛けてしまって」

「だからいいって。おねえさんは、俺のトレーナーなんだから」

トレーナーとポケモンは、そんな主従の関係なのか?と疑問符が生まれたが、何だか訊き辛かった。
それより……と彼は続ける。

「あんま服をにぎらないでくれよ。せっかく似合ってんのに」

くしゃくしゃになっちまう、と彼は笑う。
見下ろすと、彼がくれたシャツ型のワンピース。
着た時に思ったが、すとんとしたワンピースであったお陰で、サイズを気にしないで着ることが出来た。
それを見越して、この服を彼が選んでくれたかは分らないが。
その服を、私は知らないうちに握り締めていたらしい。
何を緊張していたのだろう。
ぱっと慌てて手を放す。
そしてふと、脳内で彼の言葉がリピートする。
似合っている、と。
こそばゆくて仕方ない。

「あははっ。照れてる照れてる」

そう言ってからかわれたが、事実なので仕方がない。
言い返せないまま、つい睨んでしまった。

「ごめんごめん。ま、取り敢えず食えよ。どーぞ」

そう言って牛乳瓶の蓋を開け、渡してくれる。
私は両手でそれを受け取り、頂きます、と言って、ひとくち口に含んだ。
おいしい。いつもの牛乳と味が違って感じるのは、久し振りの食事だからだろうか。
ごくりと喉を通すと、空腹が思い出したかの様に押し寄せてきた。

「うまいよなあ、モーモーミルク。俺も大好きなんだ」

もぐもぐとパンを食べながら、彼は話す。
大きなパンを、半分に千切ったらしい。片割れが、私の方に置かれている。

「このパンも、食べていいの?」

「ああ、もちろんいいぜ。モモンもあるからな。遠慮せずに食えよ」

そう言って、やや小ぶりな桃を指で一つ突いた。
モモンとは、この桃のことだろうか。やけに可愛い言い方をするものだ。
そう思いながらよく見ると、私の知っている桃とは少し違った。
手に取り顔に近づけると、やはり桃とは違う、甘い香りがした。

「……なんか、ほんとに何も知らねーんだな。おねえさん」

「え?」

顔を上げると、少し呆れた様な、困った様な表情をした彼がいた。
確か、昨夜も同じ様な表情をされたっけ。
どうしよう。
今更だが、この状況で明らかに危険で怪しい存在は彼では無く、私だ。

「ごめんなさい。私……本当に何も」

「あ、いや、そういうんじゃないんだ! ごめんな。ただ、ちょっとびっくりしたんだ」

慌てた様に彼は手を大きく振り、一気に大量のモーモーミルクを流し込んで言った。

「ポケモンの存在も知らないみたいだったから、どういうことなんだって思ってたんだ。でも、おねえさんの反応がいちいち新鮮だったからさ、あ、ほんとに俺の知らない世界から来たんだなって」

一息に話し、ぐっと空気を飲み込んだ。

「正直、最初はあんま信じてなかったんだ。ごめんな」

そう彼は話した。
それはそうだ。当たり前だ。
突然知らない世界から来たなどと妄言を漏らす女の事を、誰が信じるものか。
そんな私を受け入れてくれた彼に出会ったことは、奇跡なのだと思う。
彼に会えて良かったと、心から感じた。
そして今、彼自身の正直な気持ちを話してくれた事が、とても嬉しい。
本当に、良かった。

「ありがとう。それでも、信じてくれて。わたし」

言葉が出ない。

「ええっ、ちょ、たんまたんま!」

なんで泣くんだ?!と彼が慌てだす。
泣く?
頬に触れると、指が濡れた。
いつの間にか、視界はぼやけていた。
彼の顔が、よく見えない。
目の奥から、こめかみから、脳の中に、熱が集まる。
頭が熱い。脳が麻痺して、よく働かない。
ああ恥ずかしい。
人前で、こんなに泣くなんて、久し振りだ。
しかも、昨晩知り合ったばかりの、男の人の前で。
抑えようとしても、涙は止まらない。
とめどなく、溢れてくる。
何がこんなに悲しいんだろう。
何がこんなに嬉しいんだろう。
わからない。
わからない。

手に持ったままだった果実の甘い香りが、私の脳を優しくかすめていった。


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