ペンローズの階段を降りる

 1.

もがいて、足掻いて、掻き毟って傷付けてでも手に入れた小さな希望はしかし、あっけなくこの手から離れてしまう。
出典は、僕。

気付いた時すでに事は済んでいた。
僕は巨漢に顔面を殴られ鼻と口の端から血を出していて痛みは頭と頬にあった。
月明かりに照らされた四畳半の小さな自分の部屋とその惨状を目の当たりにした僕は全てを悟った。
やられた。

「うわああああ!」

無茶苦茶に暴れて抵抗するが効果は全く無くついでの様にもう一発腹に一撃を喰らった。痛い。
痛い。痛い痛い痛い痛い。

「痛ってえ!」

叫んだのは僕じゃない。巨漢の方だ。

「こいつ、俺の腕を噛みやがった!」

痛いのは僕の切れた口角も一緒だった。
刹那、僕は狭い部屋の端に身体をぶん投げられた。机の角で頭を打った。痛い。

「もういいだろ。行くぞ」

小柄な男が一人堂々と僕の部屋の玄関から出ようとしていた。
巨漢がそれに続く。
待て。待てよ。
今までの僕が積み上げてきたものを返せ。

ここで打ちひしがれないのがこの僕だ。
僕のしつこさを舐めるな。

玄関を出て扉も閉めずに奴等の後を追う。どうせ盗まれるものなんてもう何も無い。
男二人がセダン型の車に乗り込むとその車は直ぐに発進した。別の仲間が待機してたんだ。
車種とナンバーを記憶する。走って間に合うかは分からないが大通りに出る前の信号待ちに期待して後を追う。盗人が信号機のいうことを守るのかは知らない。
僕は他の人間より体力と嗅覚と足の速さに自信があって、しつこい性格なんだ。あとはちょっぴり、運が悪い。
もがいて、足掻いて、掻き毟って傷付けてでも手に入れた小さな希望はしかし、あっけなくこの手から離れてしまう。
出典は、この僕。

驚くべきことに盗人は信号機のいうことを守っていた。
更に僕が走って近付いても車が発進しないところをみると奴等は僕に気付いていない様だ。
走って追い付かれるなんて思っていないのか。考えが足りないな。

「考えが足りないのはお前の方なのよ」

「えっ……」

振り向いた途端、世界が暗転。僕は三半規管の機能を失ってぐるぐると暗闇を彷徨った。
しまった。まさかまだ仲間が居たなんて。
これはポケモンの……エスパータイプの技だ。

「言っとくけど、わたし達はあいつ等の仲間なんかじゃないのよ」

「うわっ!?」

どさりと地面に投げ捨てられる僕の身体。
うつ伏せる僕の目の前には二つの人影があった。

「ちょっと大人しくしていてほしいのよ」

ちら、と相手を見やる。さっきから僕に話し掛けているのは白いドレスの様な服を着た女の子。もう一人は紺色のスーツを着た男の子。彼はずっと僕に技を掛け続けている。お陰で僕の身体は金縛りの様に動かない。

「ブラン」

男の子が女の子に呼び掛ける。
ブランと呼ばれた女の子は彼に頷いて言った。

「時間稼ぎはこのくらいでいいかしら」

その時、信号が青に変わった。セダンの車が走り去っていく。

「ああ……」

情けない声を上げると、女の子が僕を鼻で嗤ったのが分かった。

「あんたみたいな半端なのが行っても邪魔になるだけなのよ。大人しく待っているのが賢明かしら」

半端、って。

「ノア、わたし達も行くのよ」

身を翻す女の子に、ノアと呼ばれた男の子が続く。
横たわる僕の横を通り過ぎた男の子は一度立ち止まり、少し悩んでから僕の前にしゃがみ込んで、言った。

「いのち、だいじに」

そう言って男の子は夜の街に溶けた女の子に続く。
いや。いやだ。
そうはさせない。
そうは、させない……!

「あ……!?」

咄嗟に男の子の足に掴み掛かる。男の子が声を上げたのが分かった。
刹那、僕の身体は突然の浮遊感に包まれた。なんだ。どうした。
足元を見ると僕の足は宙に浮き、遥か眼下には煌く夜の大都会。僕等は空を飛んでいた。

「はあああぁぁぁ!?」

「それはこっちのセリフなのよ!」

女の子が傘の様なものでべしべしと僕の頭を叩いた。大して痛くないけど、痛い。
明るい月も霞むほどに輝く街の景色。不夜城を見下ろす僕の長い夜は、こうして幕を上げたのだった。


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