心拍数


「哺乳類の心臓は一生に約20億回脈打つんだって、知ってた?」

何年か前にゾンビ映画でも観ようという話を私からして、隣の彼の家に上がり込んだ。凛は黙々とテレビの準備をしていたが、私の方を見て顔を顰めたのを覚えている。
私がこういうヘンなタイミングで変な話ばかりするせいもあって、いつも凛の眉間にはシワが寄っていた。跡がついて取れなくなっちゃったら、何割かが私のせいになるのかもしれない。
凛は私をじっと見つめた後に、手元にあるくたくたのクッションを私に押し付けた。「ぎゃ」と変な声が出る。

「それは、あっという間だな」

凛は言葉を待っていた私にそれだけ言うとテレビに向き直り、再生ボタンを押す。彼らしいあっさりとした感想だった。それで私は、スローモーションの中で血飛沫をあげる男性をぼんやりと見つめる。

「サッカーしてると心拍数上がるもんね」

至極当然とばかりに、テレビの中のゾンビが代わりに呻き声で返事をしていた。

*

遠くに大学生が操舵するヨットが見えた。夕日に点々と浮かぶそれは、海面すれすれを飛ぶカモメみたいだった。
ラブホテルの安っぽいライターを何度かカチカチと鳴らせば、オイル臭い火がぬらりと立ち上がる。覚束無い手つきでタバコの先端に火を当てて、赤く点ったら口に咥えた。吸い込むのが恐ろしくて、まずは咥える。フィルターは溶けたガムみたいな味がして、無意識に深く噛みこんでしまう。

「なにやってんだ不良女」
「ゴホッゴホッ」

思い切り息を吸い込んでしまい、肺に甘ったるいバニラが広がった。先端の灰が海風に吹かれてコンクリートに落ちる。
隣を涙目で見上げれば、数ヶ月前に音信不通となった幼なじみがいた。喜びやら怒り、驚きとかをミキサーにかけて出来た筆舌に尽くし難い感情が胸を支配する。私はただ馬鹿みたいに口を開閉して、言葉を発せずにいた。
凛はランニングの途中だったようで、耳からイヤホンを外しながら再度私に聞く。その視線は私ではなく、手元の煙草に向いていた。

「なにやってるかって聞いてんだよ」
「えー……んー……これお兄ちゃんからパクってきたの」
「答えになってねぇ」
「あー……」

視線を逸らしても、どこかに逃げ場があるわけではない。私は上空で旋回する鳶に助けを求めたが、やがて沈黙に耐えきれずに諦めて口を開く。

「文化系の平均寿命って体育会系の人の平均寿命より、6歳ぐらい多いんだって」
「で?」
「……そんだけだけど」
「はぁ?」

恐らく彼にとっては意味不明な、その回答がお気に召さなかったらしい。私にとっては遠回しな答えだから、それ以上はどれだけ凄まれても言えない。
私は短くなった煙草を齧って煙を肺に貯める。そして噎せた。ぬるい煙が気持ち悪くて、冷たい海風を少し吸い込んだ。

「哺乳類の心臓は、」

あの話をしようと思った。
きっと早くに凛は死ぬのだ。
刹那に瞬いた流れ星のような、駆ける人生を勝手に生きて死ぬ。
私はそれを追いかけて、追いかけている。
私は200メートルを走れば息が上がるのに、彼はそうじゃない。私が息を切らしている間に、心拍数は置いていかれる。
隣の彼の背は大人びて、伸びた影は長い。それを片足を少し伸ばして意味もなく踏みつける。
多分、私はまたあの時と同じ答えを期待していた。

「知ってる」

手元の煙草が乱暴に奪われて、海へと投げ込まれる。その時のスローモーション、半円を描く様な美しい放物線。
先端の火が消える音は、波に飲まれて聞こえなかった。私は呆気に取られた顔で海を見つめて、凛の横顔を見た。
やけに眩しい西日が、凛の輪郭を鮮明に縁どる。耳に残るような波の音だった。

「二度と馬鹿なことするなよ」

ポケットからイヤホンを取り出して、彼は防波堤から飛び降りた。
残されたのは私と、ラブホテルの安っぽいライターだけだった。
私は深呼吸して、凛が走っていった道を振り返る。もう彼の背中は見えず、散歩中のゴールデンレトリバーがしっぽを振って通り過ぎていった。

「なにそれ」

私は怒りを込めて、ライターを海にぶん投げる。飛距離は伸びず、手前でぽちゃんと音を立てて落ちた。
そんなくだらないこと、覚えてんなよ馬鹿。

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