fill a heart.to the brim.with affection.



fill a heart.





アフターファイブ。

とうの昔に死語となったはずの、定時上がりに過ごす週末の夜。



「……では、お先に失礼します」

「うん。あァー……悪かったな、ホント」



ポリポリと、鳥の巣のような頭を掻いた高身長の上司に一礼してから、少し足早にエントランスへ向かう。

華やかな開放感とは、ほど遠い。



「……うわ……ひどい顔」



ガラ空きで内心ホッとしたエレベーターに一人、コンパクトを開いて見れば、蒼白い顔色に崩れてきたメイク。

取引先による、私――女性への無礼尽くしで、ぽっかり空いた長い夜を……さて、どうやって過ごそうか。



「とりあえず、ダラダラ飲みたいけど……宅飲みじゃ味気ないかなぁ……」



徐々に沈んでいく薄青い空と、ぽつぽつ灯り出した街並みをガラス越しの眼下に眺めていると、ポーンと光ったボタンに扉が開く。



「……サクラか。ひでェ顔だな」



一瞬驚き、乗り込んで来たのは、同じ部署の大柄で強面なスモーカーさん。



「っふふ、えぇ。……全く、我ながらそう思います」



失礼なようでいて、多分な気遣いを含んだ言葉に笑みがこぼれる。

外回りが多い彼と事務の私、直接関わる事は少ないけれど、たまに顔を合わせればこうして気負わず話せる率直な方だ。



『おいたしぎィ!てめェさっさと資料持って来いっつっただろうが!!』

『すっ、すみませんっ!!先程からメガネが見当たらなくって……!!』

『…………そうか。なら、その頭の上に乗ってんのは何だ?あァ?』

『えっ!?……あぁっ!すみませんっ……ありがとうございます……!!』

『……言っておくがな、……今時ネタにもならねェぞ、そんなモン…………』



いつでも素直でドジっ子な、可愛らしい部下のたしぎちゃんと、怒鳴りつつもフォローするスモーカーさんの掛け合いは、もはや他部署にも知られた有名人であって。

何だかんだ面倒見の良い、優しさを持った人だと思う。



「もう上がりか?」

「えぇ。かと言ってする事も無いので、適当に飲んで帰ろうかと……」

「そうか。……あァ……その、何だ」

「?……はい」



ガリガリと首筋を掻き、珍しく語尾が濁ったスモーカーさんに小首を傾げると、エントランスへ到着。

そのまま続いて社外へ出た所で、空調と外気の狭間、彼が此方を向く。



「おれもこのまま上がりなんでな。……嫌なら断わりゃいいんだが、一緒に呑むか」



どこか居心地悪そうに、それでもジッと返答を待つ姿勢に、言わんとする意味を探る。

――あぁ、そっか。社内だと上下関係に縛られるから……



「ふふっ!えぇ、ぜひ。……大丈夫ですよ。スモーカーさんからパワハラ、なんて思いもしませんから」

「……あァ」



さりげない紳士的な態度に浮かんだ喜びが弾けて、一瞬ストレスが吹き飛ぶ。

僅かな沈黙の後、ふっと一息吐いたスモーカーさんに招かれるまま、隣へお邪魔して。



「どちらへ連れて行って下さるんです?」

「まァ……おれの行きつけ、って所だ。……他の奴らにはバラすなよ」



さも面倒臭そうにオフィスの方を見やった姿に、思わず吹き出しつつ頷く。

有名人も苦労するなぁ……と思いながら、メイク直しておけば良かったな、なんて。


少し上向いた気分の中、『OPEN』と『CLOSE』が交差する夕暮れの街を、並んで歩いた。




to the brim.





入り組んだ路地裏を探検気分で進んだ先、ふいに現れた扉をくぐって。

それなりに騒がしくも居心地の良いダイニングバーのカウンターは、積もり積もった愚痴を吐露するにはうってつけの場所だった。


――上手な聞き役に甘やかされると、泣き上戸になりがちな点を除けば。



「………そうしたら、一転してずいぶん絡まれて。得意先のお偉方ですし、強くも出られず……臭いし近いし触ってくるし、本当に……最悪な営業でしたね……」

「――クザンは。奴に同行したんじゃねェのか」

「えぇ。飄々と口撃というか、その場で制して下さったんですが……代わりに、クザンさんの『お気に入り』として振る舞う事に……」

「下らねェ。一体何をやってやがんだ、あの能天気野郎は……」



共通の上司を想起しつつ、苛立たしげに吐き捨てたスモーカーさんがグラスを呷る。


カラン、と揺れたロックの氷に、仰向く顎、無精髭……上下する喉仏。

まるで水の如く流し込まれるキッツい度数のお酒を眺めつつ、ロックだなぁ……なんて、何とも下らない感想を抱く。



「あ?……何だ」

「……ぁ、いえ……」



だいぶ酔いが回ってきたのか、カクテルでひんやり汗をかいた、手元のトールグラスが心地良い。



「……護っては、頂いたんですけどね。もっと社交的というか……他に行きたがっている華やかな事務員もいた中で、業績で選んだと聞いて……ご期待に、沿えたかったものの……っ、…………あぁもう、すみません」



ツンと染みた鼻腔を啜って、情けなくも苦笑する。

――出会い頭、先方から残念そうに品定めされた胸を見下ろしつつ顔を伏せると、頭へ触れる大きな手のひら。



「……へ、」

「我慢するな。そうやって溜め込んできた結果だろう。――んな事くらい承知で誘ってんだ、洗いざらい吐いちまえ」



職場では聞いた事もない、やわらかな声音に、ポン、ポン、と撫ぜてくる優しい手つき。

……じわじわ滲む視界が浸水するまま、カウンターの木目へ落ちそうな雫に、そっとハンカチを出しながら。

――理解も余裕もあるスモーカーさんの包容力に、無条件で甘えたくなる父性を感じた。



「……ふふふ。あぁもう、どうしましょうね。今のスモーカーさん、本当に……理想の父親、って感じです」

「…………おれはまだ、こんなでけェ娘がいる歳じゃねェぞ」

「すみません、あんまり心地良く泣けるので。……そういえば、おいくつなんです?」

「……35だが」

「あら。それなら私、ちょうど10歳下なので……ふふ。確かに、お若いですね」



俯いていた顔を上げて、温かな安心感に心身が緩むまま笑顔を向ければ、不満げに止まっていた手がふっと降りて来る。



「……え……っ……」



髪では温く感じられた温度が、ゴツゴツした男性の感触が、……まだ少し濡れていた目元、頬を拭って直肌に伝わる。



「10歳上は、範囲外か?」



――相変わらずの強面ながら、真剣な顔つきで輪郭をなぞった指は、驚くほど熱くて。

これまで見聞きしてきた彼の、荒っぽくも心ある言動とは、……質が違っていた。


あの程度の飲酒量で酔っ払う人ではないし、ましてや女たらしとは対極な、硬派なひとだ。

だからこそ、つまり、これは。
私の思い上がりではないのなら、すなわち。

く、……口説かれて、いる。



「……し、……職場の先輩で、数分前まで……良い父親像、でしたし……」



こんな、いきなり。

回らない頭と舌が戸惑いを紡ぐも、詰められた距離や触れられた事実に、嫌悪感は微塵も湧かない。


――むしろ、鼓動は速まるばかりで。



「…………酔われた勢いの、お戯れなら……お断りします、が……」



耳や首筋にまで及んだ火照りを持て余し、すっかり水っぽくなったカクテルをひと息に飲み干す。

空っぽの中身で冷や汗をかくグラスを手慰み、混乱の極地に、えいやっと。



「!」



気がつけば、私の片手は、スモーカーさんの手を握っていた。


ぎゅ、……鋭敏になる指先の感覚で、その筋張った太い手首の脈を測る。

アルコールを摂取すれば誰しも脈拍は上昇するだとか、真っ当な正論を頭の外に追いやって。
とにかく触った。文字通り手探りで。確かめたかった。

このひとはドキドキしてる?
このひとは、本気なの?



「サユキ」



初めて呼ばれた、名前。
握った手首の拍動は、強くて、速い。


「……惚れてもいねェ女にここまでする程、おれは野暮じゃねェよ」



――――そのとき芽生えた感情は、身震いするほど甘酸っぱかった。




with affection.





終電前。
とっぷり更けた、夜の雑踏。

時折フラつく、覚束ない足取りを見かねた様子のスモーカーさんに、なるべく身を寄せて歩く。

互いの最寄駅は、反対方面だから。

すぐそこの駅に着くまでが、初呑み……兼、……初デートなんだと、思う。



「帰宅次第、連絡しろよ」

「……えぇ」



ふと告げられた端的な心遣いへ微笑むと同時に、前方で煌々と光る駅周辺の繁華街から、スッと視線を外す。

…………後先も考えていない、子供じみた我儘なんて、何一つ口走らないように。



「……我慢するな、つっただろう」



――頭上、すぐ斜め上。

囁くような距離、また見透かされた台詞に、ほんの数瞬、脚が止まった。



「……いくら不慣れな酔っ払いでも、この状況で駄々を捏ねはしませんよ」



下着、新品じゃないし。

なんて下世話に思い浮かべつつ、自分から……あと少し、の距離を詰めて応えた、リップノイズ。


――見上げた間近なスモーカーさんは、険の無い……まさに驚いた顔をしていた。



「……ふふふっ!」



疲れて、泣いて、……照れて、甘えて。

なんとも翻弄されていたアフターファイブの最後に、言外な本音を遠慮なくお伝えして。


ほどよく抜けてきたアルコールと、穏やかな愉しみを纏った心地で、着いた改札をスムーズに抜ける。



「――では自宅へ着き次第、連絡させて頂きますね。ありがとうございました」



電光掲示板に目を走らせると、ちょうど彼側のホームへ滑り込む電車のアナウンスが響いた。



「…………」



浮かれ騒ぐ人々が足早に流れて行く隅で、手短に一礼したものの、返されたのは沈黙のみ。

不機嫌……とまではいかないけれど、非常に物言いたげなスモーカーさんが、ジッと私を見つめている。



「……あの……?」

「……あァ。気をつけて帰れ」



溜息交じりに首筋を掻いた姿へ若干のデジャヴを感じていると、今度は私側のホームにアナウンス。



「えぇ。スモーカーさんもお気をつけて!」



――さぁ急げ、と背を向ければ、



「サユキ、」

「はい?…………っ!」



ゼロ距離で射抜かれた、赤い瞳。



「……じゃあな」



愉しげな吐息が、湿った唇を掠めて。


……時間にして、ほんの数瞬。

上がった口角と、くつくつ喉で笑った気配を呆けて見送るも、我に返ってホームへと駆ける。


――プシューッ、とほぼ同時に一息吐いて、速度を上げていく電車に揺られながら、スマホを取り出して。

…………着きました、の後、どんな文面にしようかなぁ、なんて。


いつの間にか駆け引きめいて、してやられた……ようなやり取りを想起しつつ、ぶり返した頬の熱に、素直な指先が滑った。




thank you for your time!





「……全く……公衆の面前で何してるのよ。……にしても、ずいぶん急展開じゃない?ヒナ驚嘆」

「うるせェ。好機は掴むまでだろう……おい、口外するなよ」

「はいはい。……ま、ついさっきまでクザンさんとご一緒してたから、もう手遅れでしょうけど」

「あァ?……冗談じゃねェぞ……クソ、よりにもよって……」

「しばらく話題には事欠かないわね。……でも良かったわ、やっとくっ付いてくれて。ヒナ安心」

「…………フン。見てるだけなんざ、性に合わねェからな」



end.


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