銀色の魔法使い

 ゆらり。白の世界で身体が揺蕩う。どこもかしこも真っ白で、自分が前後左右どこをむいているのかもわからない。白と自分しかいないその場所で、ただゆらゆらと浮いているような心地に身を任せていた。

どのくらいそうしていたのだろう。何年もそうしていたような気もするし、たった数秒しか経っていない気もする。ひやり、と足先に冷たい何かが触れた。身を竦めるほどの冷たさはまるで氷の塊を当てられているよう。それを取り払おうとするも、足は動かない。どんなに力を入れても頑なに動かない足に四苦八苦している間にその冷たい何かは甲に触れ、くるぶしを冷やし、足首にまで到達していた。足首にまとわりつく冷たさに不快感が湧き上がり、そして唐突にこの冷たさの正体に思い当たった。これは氷の塊でも、水でもない。
 何者かの手が、私の足を掴んでいる。
 ふくらはぎを撫ぜるその手はあまりにも冷たくてもう足首から先の感覚が失われている。おかしい、と、私はようやく疑問を持つ。どう考えても人間の手がこんなに冷たいはずがない。この冷たさは、まるで石のような、死人のような──────。
 ぞわり。膝裏を軽くくすぐるようにして撫でるその手の冷たさに、おぞましさに私は身を震わせた。
冷たい手の主は明確な意図を持って私に触れている。その動きに引き摺り込まれるような感覚を覚えて振り払おうとするもやはり身体は動かない。石にでもなってしまったかのように。その手の冷たさに、恐怖に、動かない身体は侵食されていく。もうどこを触れられているのかわからない。白の世界がいつの間にか暗くなり、今ではもう真っ暗だ。
 急激な世界の変化に気をとられる暇もなく、突然私の意識を睡魔が襲う。抗う術を待たない瞼がどんどんとおりていき黒の世界が狭まっていく。
寒い。怖い。──────もう、終わりにしたい。
そうだ。もしかしたらこの手は私を救うものなのかもしれない。この空間から救い出す救済なのかも。
ああ、もう、何も考えられない。何もわからない。なぜ私はこんなところにいるのだろう。なぜこんなにも寒いのだろう。私、って、なんだろう。
何もかもを手放して別れを告げて。頬をするりと撫でた冷たさに身を任せ、私は瞼を下ろす。瞼の裏の赤みがかった黒の世界が広がる。

そこに、何かが降ってきた。白だ。白が、黒の世界に降ってきた。
黒の世界を降り注ぐ白が塗り替えて侵食していく。やがてそれはほんのりと金を帯びた光となり、あまりの眩しさに目を細める。
いつの間にか瞼は開き、冷たさもほぐれていた。
ふわり、と一際おおきな光の玉がゆっくりとおりてくるのが見える。それはやがて私の眼前にまで降りる。光から放たれる眩しさと暖かさに思わず目を閉じて。
そうして、世界は暗転する。
水の中にいる。そう錯覚してしまうほど、視界はぼんやりと霧がかっていた。
ぱちり、といやに重い瞼を何度か瞬けば段々視界がクリアになっていく。そうして私が視認したのは、樹目の美しい天井とそこから吊り下げられた何種類もの植物。先が渦を巻いているものもあれば赤い小さな実が連なっているものもある。それらが風に揺れるのを目で追って、ああ窓が開いている、と思った。
重くて動かしづらい頭ごと横を向けば大きな窓が開け放たれて、そこから爽やかな風が入り込んでいた。鼻を擽る風は青い土の匂いを運ぶ。窓までほんの少し高さがあるから外は見えないけれど、ここはどこかの山奥なのかもしれない。
そう思いながら頭を戻して。私はぴたりと動きを止めた。

そこに、音も無く何かが立っていた。青年のような風貌をしているが、あまりにも整い過ぎている。すっと通った鼻筋も、薄い唇も、こちらを静かに見下ろす泉を湛えたような瞳も、肩口から溢れる銀糸のような髪も。何もかもが人間離れしていて、とても同じ人間だとは思えなかった。
声も出せずただその青い目を見つめ返す。ややあって、人形のような彼はふっと柔らかい表情を顔に浮かべた。
「ようやく目覚めたようだね、お姫様」
唐突に人間味を帯びた揶揄うような声色に無意識のうちに張り詰めていた息をそっと吐き出す。
「あ」
なたは、と続けるはずだった声は不快な雑音に掻き消された。嗄れたその音に思わず眉を顰める。それが自分の喉から発せられた声だと気がつくのにそう時間はかからなかった。
「喋ろうとしてはいけないよ」
男は驚きと不安感にはく、と口を動かした私を見咎めるように言った。
「声が出ないのも身体が重いのも無理はない。今は薬と魔法できみの意識の輪郭を曖昧にしているから、あまり動いてはいけない」
まほう、と唇だけでその不思議な単語を刻む。私の顔を見下ろしていた男はおもむろに眼前に白い手を翳す。それが瞼を覆い思わず目を瞑ったと同時に何か温かいものが身体を巡った。それはじんわりと体内を巡り、色んな部位を癒していく。その心地よさにほうと息を吐き、身体から力が抜けていった。落ち行く意識の中、微かにおやすみ、と祈られたような気がした。

次に意識が浮上したのは、雨音に包まれた朝のことだった。前回と変わらない天井、吊るされた植物は種類が変わっている。見覚えのない白い産毛がたくさんついた植物から目を離し、窓の方を見る。閉め切った窓の向こうからしとしとと雨音が聞こえる。灯りのない部屋は薄らぼんやりとした明るさだった。起き上がるべく身体に力を入れて、ギシリと骨が軋んだ。前回よりは身体が軽い。けれど決して絶好調とは言えないし身体の節々が悲鳴を上げ油の指していないブリキ人形のようだ。全身の筋肉が衰えて力が入りづらい。思う様に動かせない身体は眠り込んでいた期間の長さを物語っていた。
非常にゆっくりと何とか上半身を起こし、樹の窓枠にもたれ掛かる。気怠さと疲労感に包まれながら硝子の向こう側を眺める。前回起きた時は山奥かどこかだと思っていたが予想はそう外れていない様だ。窓の外は緑が広がり、どこもかしこも青々とした樹が聳え立っている。山か、森の中だ。窓を閉めてもなお湿った土の匂いが漂い、自然が生み出した香りが頭の中をすっきりと正してくれる。
もたれていた身体を起こそうとして、変な力の入れ方をしてしまった。あ、と声を発するよりも前にぐらりと視界が揺れる。倒れる、と思った瞬間何かに支えられた。
「随分お転婆な子だな」
予想外だ、と口にしたその腕の持ち主は、やはりあの男だった。倒れこむところだった私の身体を支えていた男は私の背に大きなクッションを差し込み、そこにもたれさせてくれた。
「あり、がとう」
凝り固まった喉を動かしてどうにかその一言を絞り出すと男はどういたしましてと綺麗に笑った。クッションに体重を預け息を吐く。そんなに動いていないはずなのに疲労感が重くのしかかる。寝台の横の椅子に腰を下ろした男はいつに間にか手にしていたティーポットから琥珀色の液体をカップに注いでいた。紅茶の香ばしさが鼻を抜ける。優雅にカップを傾けお茶を楽しむ男を眺め、そこでようやく固まっていた思考が溶け出してきたらしい。ここはどこ、この人はだれ、そもそもなぜ私はこんなところに、と、数多の疑問が溢れ出す。目が覚めたら身体に意味不明な不調を抱え見知らぬ部屋にいて、人間離れした相貌の男がいた。最初から最後までわからないことだらけだ。そもそもなんでこんなに身体が重いんだ────と。自分の頭の中、記憶の箱を開けて思いかえそうとしたその瞬間。
私はあまりの驚愕に呼吸を忘れた。箱が開かない。どれだけ力を込めても振り回しても開かない。物言わぬ箱は開かず────何も、思い出せない。こうなる前に何をしていて、私は、……………私は、だれだ?

「息をしなさい」
とん、と額に男の指先が触れる。我に返った瞬間極限まで容量を減らした肺に酸素を取り込もうとして噎せてしまった。げほ、と咳き込んでなんとか呼吸を安定させる。その間男はカップを離すことなく私を眺めていた。
「あの」呼吸を整える暇も惜しく、息も絶え絶えに口を開く。「わ、私は誰ですか」
静寂。自分が何を口走ったのかを正しく理解し、自分を自分で殴りたくなった。そんなことを聞いてどうする。今一番知りたいことではあるけど、そんなの他人のこの男が知るわけがない。それよりこの人が誰かとかここはどこかを聞くべきだった。
「記憶喪失」
脳内で数秒前の自分を攻め立てていると、男は静寂にぽつりと一言こぼした。へ、と間抜けな音が口から出て男を見れば、彼はごく自然に紅茶を楽しみ、そうだろうと確信を持っている様な声でそう問うた。
「何を覚えている?どんなことでもいい。自分の名前や故郷は?」
「…………わかりません。なにも、思い出せないの」
「そう」なら、と言いながらカップの中身をこちらに向ける。「この液体、何かわかるかい」
「紅茶」
それからクッションや硝子の名前、国名や数字について聞かれ、男はふうむと片目を瞑った。
「一般常識は覚えてるのか。心因性のものだろうね」
「心因性」
「ちなみに、きみは一月前この囁きの森に倒れていたんだ。全身血まみれの重体でね」
そう言われて自身の身体を見下ろすも、傷跡などは全く見当たらない。妙な倦怠感と身体が重いだけだ。
「怪我は僕が治したからもう痛みもないし痕もない。その間眠り続けていたのと薬の副作用で身体は重いだろうけど」
それと、と言葉を続けながら男はおもむろに手を伸ばし、私の顔に触れる。目元に触れられた、と思って、その妙な感覚に思わず目を開く。
「こちらの目はもう手遅れだった。どうせならと思って摘出してしまったのだけど、どう?」
反射的に右目に手をやる。指先に感じるのはガーゼのざらついた感触。そしてその奥にあるはずのものがない、奇妙な喪失感。何か視界が変だと思っていたけれど、まさか片目が無くなっていたとは。
あまりに驚きすぎて声も出せずにいると眼前に何かの瓶が突き付けられる。青緑の液体が揺れるそれを差し出しながら、男はにこりと綺麗に微笑んだ。
「とりあえずこれを飲みなさい。怪我が治ったとはいえ体内の調子はまだ整っていないだろうから」
眼前でちゃぷちゃぷと揺れる液体を目で追いながらおずおずと瓶を受け取る。コルク栓を抜き取り、一息の方がいいと言われた通りグッと呷り、そして思い切りえずいてしまった。
酷い苦味が舌と喉を焼き、妙な生臭さと甘さが鼻を抜ける。一言で言うと不味い。あまりの不味さに涙を流しながらヒイヒイ喘いでいると、男はその様子をしらっと眺めながら私と同じように白磁のカップを呷った。
「み、みず、」
「水はあげられない。薬が薄まってしまうからね。大丈夫、辛いのは今だけだよ」
ほら────と続いた言葉を聞きながらぐらりと意識が揺れる。力なくクッションに倒れ込み、全身から力が抜けていく。
「眠くなってきた。そのまま寝てしまうといい、起きた頃にはその不味さも忘れてしまうだろうから」
何か危ないものを飲んでしまったのではないか、と遅い危機感が脳裏をよぎる。が、もう何もできない。薄れゆく意識の外側で、男はまだ言葉を続けていた。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕はファウスト。魔法使いだよ」


ファウストと名乗った男の言う通り、次の目覚めはすっきりとしたものだった。気怠さはなく、身体の重さもない。おはようと私の顔を覗き込んできた男は憎らしいほど美しい顔をしていて、文句の一つでも言ってやろうと思っていたのに気が抜けてしまった。
「それで、きみにはここを出て行ってほしいのだけど」
「え」
挨拶の次にそれ?と思いながら、顔から血の気が引いていくのを感じた。男は笑みを浮かべながら何でもなさそうにそう言って私を見ている。それは冗談を言っているようには見えなかった。
「あ、あの、でも、」
「怪我は治ったしもう動けるだろう?一月も世話をしてあげたのだから十分だと思うのだけど」
正論だ。説得しようと考えた言葉がグッと詰まる。男の言う通り、大怪我を負った人間を家にあげ一月も世話をしていたのだ。なんて慈悲深さだと感謝している。
けれど、ここで追い出されたら私はどうすればいいのだろう。自分の名前もわからず、証明できるものも何も持っていない。それどころか片目はないし、行くあてもない。彼にその後の面倒を見る義理はない。わかってはいるけれど、私が頼ることのできる人がこの男だけだということもまた事実だった。
「手当をして頂いたことも、一月もお邪魔していたことも全部心から感謝しています。でも行く当てがないんです。自分のことも、これからどうすればいいのかもわからなくて」
「そうだね。でもそれ、僕に関係あるかな」
「………ありません」
にこ、と笑った彼は話は終わりだとでも言いたげな雰囲気を醸していた。しかし空気を読むわけにはいかない。私の命がかかっていると言っても過言ではないのだ。まさに命の恩人であるひとに真っ向から言うのも変な話だけれど。
「あなたは魔法使い、なんですよね」
「そうだよ」
軽々しく認めてみせる男は非常に軽薄な雰囲気ではあるが冗談を言っているようには見えなかった。妙な色をした薬を作れるのも魔法使いだからなのだろう。お伽話や老人の昔話にしか出てこない“魔法使い“という存在は曖昧ではっきりしない。それでも目の前で優雅に紅茶を楽しむ男がその魔法使いなのだということはすんなりと理解できた。だから、私が言うべきことは一つしかない。
「私を弟子にしてください」
「うん?」
「掃除とか洗濯とか料理とか、何でもします。こき使って頂いて構わないのでどうかここにおいてください!」
そう勢いのまま言い切ってガバリと頭を下げる。本気だった。家事ができるかどうかはわからないがここは強気でいくしかない。下げ続ける頭の上でううん、という唸り声が聞こえた。
「そうは言ってもね。魔法使いの弟子になるって、どういうことかわかっているのかな」
「魔法使いになるんです、よね?」
「そう。それはつまり人間ではなくなるということだ」
パッと頭をあげる。柔らかい笑みとは裏腹に男の瞳は鋭く私を射抜いていた。そのあまりの眼光の鋭さに息を詰まらせる。
「僕ら魔法使いは人間じゃない。悠久の時を朽ちることなく生き、遥か遠い終わりの日までただただ怠惰に時間を浪費する。親しい者に置き去りにされ、やがて待ち受けるのは孤独だけだ。そんな存在に、なりたいと?」
男の言葉はゆったりとしていて決して厳しいものではない。それなのに圧倒的な重みがのしかかる。男の言葉は自身の経験談であるからこそ酷く重苦しく、決断を躊躇わせる力があった。それでも。何もない私の前には、この選択しか残されていないのだ。
「なりたいです。なります。もう記憶も名前もないのだから、人間であることを捨てるくらいできます。迷惑だってことはわかっています。それでもどうか、お願いします」
深々と再度頭を下げる。これしかない。私にできることはただ頭を下げて懇願するだけ。魔法使いになれるなんて本気にはしていない。それでもここで放り出され途方にくれるよりは遥かにマシだった。
「いいよ」
「へ」
「ただし、条件がある」
まさかの許可が下りた。自分の耳を疑って顔を上げれば、ピ、と男の指先を眼前に突きつけられる。寄り目になりながらその指先に視線を合わせた。
「きみをここに置くのは一月だけだ。その間に、自分の名前を見つけなさい」
「名前、を?」
「そう。自分の名前を見つけることができれば僕はきみを弟子としよう」
約束する、と口にした男は笑っていた。あまりにもあっさりと承諾され、戸惑いを覚えながらありがとうございますと礼を言った。腰を上げた男は一歩踏み出したところでそういえばと言いながら振り返る。その口は愉快そうに三日月型に歪んで見えた。
「先に言っておくけれど、僕はきみを弟子に取るつもりは毛頭ないよ。それじゃあ一月頑張って」
それはつまり、私が名前を思い出す確率は0に等しいということだろう。
「………がんばります」
絞り出した声は扉が閉まる音にかき消され、男に届くことはなかった。