バターのない贅沢

朝の喫茶店が好きだ。
人々がまだ目をこすっている時間、あるいは出勤に慌ただしくしている時間に、いつもよりちょっとだけ遅く起きて、ゆっくりとファンデーションを塗って、いつもより明るいリップを唇に乗せる。明るい色の、少し動きやすい服を着て、悠然と店を訪れてモーニングを注文するのだ。
スーパーの安い食パンをトースターに突っ込んで、マーガリンを塗ってかぶりつくだけでない朝食は、一気にわたしの朝を豪華ホテルの朝へと仕立て上げてくれる。

注文から十五分ほど待つと、小さなグラタンとトーストのセットがやってきた。先に来ていたアイスコーヒーを斜め上に並べてみれば、なんて絵に描いたような朝食だろうと、眩しさに眩暈がするような気持ちにさえなる。
たっぷりのパルメザンチーズが乗ったグラタンにはトマトが入っていて、酸味と果汁がさっぱりとさせてくれるのがなんとも朝に「ちょうどいい」感じだ。トーストは焼いただけのもので、バターやジャムは追加のトッピングとして注文ができるようだった。
わたしはふむと考えて、けれど一旦それをちぎって食べることにした。どうやらパンそのものがとても美味しく仕上がっているらしい。ふわふわのクセの少ないパンはトーストで焼かれた表面がサクサクになっていて、あたたかいからいい匂いがうっすら漂っている。
これはバターをつけないのもまた一つの贅沢なのでは? とわたしは思った。
きっとわたしは隆や、友人なんかとこの場所に一緒に来たら、迷わずバターの追加注文をするだろう。たまの贅沢くらいは、なんて言って、もしかしたらジャムも一緒に頼んでしまうかもしれないし、互いに別のものを注文してシェアをするのかもしれない。それだってとても楽しくて、とても幸せなことであるに違いない。
けれど今こうして喫茶店で一人でバターのないトーストで朝食をとるわたしは、紛れもなく贅沢者の一人であると思った。
一人でとる食事は、誰かととる食事とはちょっとだけ違う。パンをグラタンに浸してしまうことを失礼ではないか考えることもないし、豪快に大きく口をあけて食べても、かわいらしくちびちび食べてもいいし、相手の食事が運ばれてきたかと気にすることもしなくていい。飽きるほど噛んでいつまでも味を確認したっていい。
食べたものの感想を言うときに、人に対して言うものであればストレートに美味しいとかこれが合うとかそういう簡素で口当たりのいい言葉を使うが、一人でいるときはちょっとだけ贅沢で、ポエミーな言葉だって選ぶことだってできる。そういう時のわたしは気分だけはニューヨーカーなのだ。わたしはアメリカに行ったことがないので、ニューヨークの朝が優雅で、贅沢ものなのかは知らないが。

まだ十代や二十代の初めの頃は、何となく食事は塩気が効いていたり、油分が多かったりするものが美味しいものなのだと感じていた。今だって確かにそういうものを美味しいと感じる。
けれど近年、味の薄いものの美味しさにも突拍子もなく気づいてしまったのだ。老舗の鰻屋さんのおすましを飲んだ時に、塩気はほとんどないはずなのに驚くほど風味があり、その品格に「なるほど、これがおすましか」なんてちょっとだけ大人ぶったような感想を言えるようになったりした。
一緒にいた隆には随分笑われてしまったが、わたしにはとても衝撃だったのだ。

喫茶店という場所は面白い。
同じメニューを肩を寄せ合ってあれこれ意見を交わし合うカップルや、付き合いたてなのかお互い手を膝に置いて硬い表情で向かい合う男女だとか、参考書を開いて電卓を叩きながら頭をボリボリ掻く青年や、最近流行りの漫画のあらすじを捲し立てるように話す女性と、一見どんな出会いがあったのだろうかと不思議に思ってしまう強面の壮年の男性の組み合わせなんかがいたりする。
その誰もが恐らくは違う贅沢な朝を過ごしているのだ。

誘われていたデートの約束をしていた隆は朝、クライアントから急な連絡があっただとかで慌ただしくジャケットを羽織って部屋を出ていった。
そういう彼を置いて贅沢な朝を過ごすわたしは、人から言わせれば薄情な女になるのかもしれない。けれどこれはちょっとした視察なのだ。この優雅な朝を、わたしは次の休日までの間に彼に余すことなくプレゼンをするのだから。
どんな言葉で彼に伝えよう。このグラタンの濃すぎず、重すぎず、さっぱりしすぎていない味を、彼にどんな風に伝えたら、次の休日を心待ちにさせてしまえるだろうか。
バターのないトーストを齧りながらそんなことを考える朝は、やはり贅沢だと言えるだろう。

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