02


「先生、わたし、もう限界です」


患者さんが帰り、真っ白な診察室で僕と千手ヶ原さんの二人きりになった瞬間、彼女がぽつりと漏らした。余談だが真っ白な箱のようなこの空間を僕は絹豆腐のようだと形容したことがあるのだが、彼女は「ではわたしはモッツァレラチーズを推します」と何も表情を変えずに言っていた。何が「では」でどうしてモッツァレラチーズを推そうと思ったのか、僕はいまだにわからない。今度議論してみたいと思う。
話が逸れてしまったが、震える声で限界を告げた千手ヶ原さんは、その時のように表情が何も変わらぬままだった。

一拍置いて、千手ヶ原さんは猛烈な勢いでワァッと手で顔を覆った。


「わたし…、わたし…!また観音坂さんに微笑むことが出来ませんでした…っ!」


手で覆われていてよくわからないけれど、きっと猛省の念が土石流のように押し寄せている千手ヶ原さんの顔は、今も微塵も変わっていないのだろうなと思った。精々眉間に皺が寄っているぐらいだろう。
それこそがこの哀れな子羊、千手ヶ原さんが長年抱える悩みなのである。

千手ヶ原さんは僕と同じチームのメンバーの観音坂独歩くんに恋をしている。
しかしこの哀れな子羊は、鉄仮面とあだ名されるぐらい感情を顔に出すことが出来ないので、なかなかに険しい道を歩んでいるのだ。僕は独歩くんと千手ヶ原さん、きっととてもいい仲になれると思うんだけどなあ。

えぐえぐと泣いている千手ヶ原さんに声を掛ける。
こんな弱ってる千手ヶ原さんをそうそう見ることはないので、今日は本当に上手くいかなかったのだろう。


「今日はどうしたんだい?」
「ひぐっ…、今日は…今日は最後に…お会計の時にお菓子を渡したのです…」
「へえ、それはいいね」
「この前退院された患者さんから頂いた、あのおいしいチョコレートのお菓子です…」
「ああ、あれは確かにおいしいお菓子だよねえ、私はパイにくるまれてるやつが好きかな」
「ふぇっ…わたしもです…わたしもそれが一番食べた感があって好きです…」
「千手ヶ原さん、意外と食いしん坊さんなんだね」
「食べるのはとても好きです…幸せな気分になれますので…」


その後お菓子談義に花が咲き、私と千手ヶ原さんは脱線に脱線を重ねた。
10分ほど経って私は当初の話題を思い出し、話を元に戻したのだった。今度千手ヶ原さんにはパイの実を買ってきてあげよう。


「それでわたし、観音坂さん、いつもお疲れなようですし、甘いものを食べたら少しは気が晴れるのではと思いお菓子をお渡ししたのですけど…」
「けど?」


ぽろん、と一粒涙が零れた。


「ぎょっとされ、ドン引きされました…!」


そうして千手ヶ原さんは冒頭のように再びワァッと顔を覆ったのだった。
恋をすると後ろ向きになってしまうから、千手ヶ原さんはそう思ってしまったのだろうけど、多分そんなことはないのだろうなあ。今度独歩くんにお菓子の感想を聞いてみよう。彼はきっと受け取ったのだろうから。

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