八月、逃げ水は微かな匂いだけを残して




各駅停車しか止まらない、小さな駅から徒歩15分。大学に着く頃にはもう、全身が汗でびっしょりだ。いつもと同じように、守衛さんに軽く会釈をして、門をくぐった。正門から更に少し外を歩かないと、図書館には辿り着けないのだ。こういうとき、キャンパスの広さに惹かれて大学を決めた受験生の頃の自分が恨めしくなる。途中で足を止め、小銭で自動販売機で缶コーヒーを2本買った。持つと、きんきんに冷えていて、じんわりと痛いくらいだ。おかげで、少し体温も下がったような気がする。あらためて、何冊も本が詰め込まれたリュックを背負いなおして、図書館に向かう。
館内に入ると、かなり冷房が効いていた。汗が引いて、身体が冷えていくのを感じながら、キョロキョロと席を見渡す。いるかな。いないかな。毎日、期待と不安が入り交じる。

(——あ、)

ひらひらと、控えめに振っている手が見えたから。私はできるだけ静かに、でも駆け出すように、その人に近づいた。

「おはよ、綴くん」
「はよーっす」

綴くんは、もう図書館に来てから随分経つみたいで、既にノートパソコンの他に何冊か資料の本を開いて置いていた。当然のように、綴くんは、自分の隣の席に置いていた鞄をどけ、私が座る席を作ってくれた。「席取り、ありがと」「ん」短いやりとりの後、私も椅子に腰掛ける。

「あ、そうだ。コーヒー、差し入れだよ」
「おお!サンキュー。ちょうど飲みたかったんだよな」

手渡すと綴くんはそのままキャップを開けて飲み始める。ごく、ごく、と小気味いい音を鳴らして、喉仏が上下する。

「脚本の調子はどう?」
「んー、まあまあかな。名前はどう?昨日、あれから進められたか?」
「ううん。昨日はあのあとすぐ寝ちゃった。だから今日頑張らないと」

隣同士、小さな声で囁き合う。なんだかくすぐったいような気がして、身をよじった。コーヒーの香りが心地よくて、私も自分の缶を開けて少しだけ口に含んだ。



元々、私も、綴くんも、図書館の常連で、何となく顔を見たことはあるなぁ、くらいの存在だった。名前も知らないし、学年も、学部も知らない。でも、時々見かける。顔を見れば、図書館にいるのが自分だけじゃないと思える。そんな存在。
その綴くんと初めて言葉を交わしたのは、数週間前のことだ。その日も私は図書館に朝から入り浸って、小説を書いていた。小説家は子どもの頃からの夢だ。秋にある大きな新人賞に向けて、夏休み中に集中して書き上げるつもりでいた。

(……はあ。全然集中できなかったなぁ。今日は帰って、ちょっと頭冷やすか……)

そう思って立ち上がる。ノートパソコンを閉じ、鞄に入れようとした、そのとき、ルーズリーフが何枚か床に落ちてしまった。「あ、」ルーズリーフは滑るように遠くまで飛んで行ってしまい、慌てて追いかける。あれは、今書いているファンタジー小説の設定やらなんやらが書いてあるメモなので、人様に見られるのは大変まずい。

「これ……」
「……!」

飛んでいった先にようやく追いつくと、そこには見覚えのあるルーズリーフを拾い上げる、見覚えのある顔があった。

「あ!す、すみません、それ、私のです……」
「ああ。危なかった。もっと遠くに行っちゃうところでしたよ。すいません、俺なんかが拾っちゃって」
「い、いや……ありがとうございます……」

申し訳なさやら、ありがたさやら、恥ずかしさやらで、私はどんな顔を向ければいいのかわからず、とりあえずうつむいてルーズリーフを受け取った。ばっちりと、私の字で小説の内容や設定が書き込まれている。

「あの……見るつもりなかったんすけど、ちょっと中身見えちゃって……」

うぅ……。やっぱり見られていた。穴があったら入りたいとはこのことだ。どうせ、馬鹿にされるんだろうと、つい身構える。

「い、いや、これは、その……」
「あの、もしかして、脚本書いてるんすか?!」
「え?き、脚本……?」

掛けられたのは、予想外の言葉だった。私の戸惑いが伝わったのか、「あ、脚本とは限らないっすよね!すいません、俺、先走っちゃって……」と彼は頭を掻く。

「俺、劇団で脚本書いてて。つってもまだまだ駆け出しっすけど。だから、もしかしてお仲間かな?なんて思ったりして……」
「あ……そうなんですね。私は小説家志望なんです。恥ずかしいですけど……」
「えっ!そうなんすか。めちゃくちゃスゲーじゃないっすか!」
「そんなことないです!今日も全然進まなくて……あの、脚本もすごいですよ」
「アハハ。何か気ぃ使わせたみたいですみません」
「そんなことないです。脚本と小説、ちょっと違うけど、お仲間ですね」
「っすね」

言われて見れば確かに、彼の座席にはノートパソコンと資料の本が散乱していて、とても見覚えのある状態だった。急に親近感が湧いてきて、自然と笑みがこぼれる。

「……えっと。皆木綴っす」
「あ……苗字名前です。英文、2年生」
「お、タメじゃん。俺も2年。執筆仲間だな。よろしく」
「……うん、よろしく」

お互い何となく視線がかち合うと、綴くんは人なつっこい笑顔で、再び頭を掻いた。
……それから私たちは、お互いを見つけては、どちらともなく、隣に座ってそれぞれ執筆するようになった。何か具体的に助け合うことはできないけれど、隣で同じように頑張っている人がいる、そう思うだけで、頑張れるような気がしたのだ。



「……名前、進捗どう?」
「ぼちぼち。綴くんは?」
「俺は全然ダメ」
「あはは」

綴くんが伸びをして、さっき私が買ってきたコーヒーをまた飲んだ。綴くんは、さっきから何度も、打ち込んでは消し、打ち込んでは消し、を繰り返している様子だった。真面目な綴くんのことだ。きっと、納得がいくまで、それを繰り返すのだろう。

「うっし。もうちょい、集中する」
「うん。頑張ろ」
「名前のおかげでモチベーション維持できてるわ。ありがとな」

綴くんは何気ない様子で、にっこり微笑んで、またすぐにパソコンに視線を集中させた。……この人、これが私にとって、どれだけ破壊力があるか、わかってるんだろうか。いや、勿論わかっていないだろうけれど。やり場のなくなった熱を持て余した私は、うっかり赤くなった頬をかくすために、頬杖をつくのだった。
少し書いては休憩。少し書いては休憩。と繰り返すうちに、気づけばもう何時間と経っている。ふと時計を見ると、午後3時を少し過ぎたところだった。そろそろ集中も切れる頃かな…と思って隣を窺い見ると、まだまだ集中が途切れなさそうな真剣な横顔が、まっすぐパソコンの画面を見つめていた。筆も乗っているようで、さっきのようにバックスペースの音が連続して聞こえてくることもない。

(……そうだ)

大した思いつきではない。私は、散らかっているリュックの中をガサゴソと探った。確か、昨日買ったアレがあるはずだ。

(……あった!)

なんてことない、個包装のキットカットだ。外を歩いている間に溶けてからまた固まったのか、少しだけいびつな形をしていた。表には大きくロゴが書かれており、裏側にはメッセージを書ける欄がついている。私は静かにペンケースからサインペンを取り出して、『つづるくん ガンバレ』と書いてみた。それから少し迷って、『♪』と書き足す。……『♥』は、勇気が出なくてやめた。
そっと、綴くんの方に差し出す。彼の集中を妨げないよう、視界に入らないギリギリ、資料の本のすぐ近くにそっと置いた。じっと画面を見つめる横顔を、盗み見る。顔に掛かるベージュの前髪が、呼吸に合わせて規則的に揺れていた。……いや、人の心配ばっかりしている場合じゃない。私も1回伸びをして、自分のパソコンに意識を集中した。

……結構、進んだんじゃないか、と思い、ふと時計を見ると、時刻は午後5時を指していた。いつのまにか、2時間も集中していたらしい。すっかり凝り固まった首を回してから、手元に置いてあった缶コーヒーに手を伸ばそうと……したところで、そこに何か置いてあることに気がついた。

「これ……」
「お、ようやく気付いてくれたか」
「綴くん?」
「名前のマネしてみた」

そこにあったのは、銀紙に包まれた小さなキャラメルだった。裏返すと、小さな字で『名前もファイト』と書かれている。

「……綴くん、字じょうずだね」
「って、そこかよ」
「キャラメルもメッセージも、ありがと。後で食べるね」
「キットカットも、ありがとな。嬉しかったから名前のマネしてみたのはいいんだけど、置いてみたらなんか恥ずかしくなっちゃってさ。いつ名前が見るかと思ったら気が気じゃなくなって脚本どころじゃなかったよ」
「ちょっと、集中できないのを私のせいにしないでよね」
「アハハ、バレたか」

屈託なく笑って、綴くんはパタンとノートパソコンを閉じた。「あれ?今日はもう終わり?」と問いかけると、「今日はもう、集中の限界を超えた」と言って綴くんはまた笑った。あなたが穏やかに笑うたび、私の心は揺れるのに、そんなことはきっと、知るよしもないに違いない。

「名前はまだ?」
「うん。もうちょっと頑張ろうかな」
「んじゃ、お先に。また明日な」
「……うん。また明日」

また明日。何てことのない言葉だけど、私にとっては宝石みたいな言葉だ。大きな鞄を肩から提げて出口に向かう綴くんの後ろ姿を見つめながら、もらったキャラメルを手の中で転がした。


(後編に続く)

2022/1/22
title by Garnet

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