信じられない吉日



最近、私はとても調子がいい。皿もコップも滅多に割らないし、レジ誤差も出さなくなった。別に、急に全てが完璧になるわけじゃない。まだまだ仕事は遅いしあたふたしちゃうこともあるけど、致命的なミスみたいなものが減ったのだ。

「苗字さん、最近いい感じだねー」
「店長!わかります〜?!」
「コップの発注数が減ったから一目瞭然だよ!」
「そ、その節はご迷惑お掛けしました……」

ミスが減ると、単純にバイトが楽しい。前までは、バイトが入っている日の前日の夜は憂鬱でたまらなかった。店長と話すとき、責められていなくても、罪悪感で店長の目を見られなかった。ミスを恐れて集中できずに、ミスを重ねていた。
そして、助けてくれているはずの牛島先輩を恐れたり、嫌ったりするほどに、心が汚れてしまっていた。
(……いつも助けてくれるのは、牛島先輩だったのに……。)

「苗字さん、調子いいついでに、新しい仕事覚えてみようか」
「へ……?」
「大丈夫、今の苗字さんなら安心して任せられるよ」
「ほ、本当ですか……っ!」
「うん、じゃあ事務室で説明するからちょっと来て」

店の奥に向かいながら、ちらっと牛島先輩の方を見る。また遊びに来た天童さんに誘われて、先輩は珍しくバイト後に客席で過ごしていた。バレーの話をしているのだろうか?二人は真剣な雰囲気だ。

私は心のなかで牛島先輩を思う。こうして私がバイトを楽しめるようになったのは、全部先輩のおかげなのだ。あれから私は、せめて先輩の足を引っ張らないような存在になろうと、ミスを減らすことに集中した。自分の後ろには、牛島先輩という心強い存在がいる。それを知っているというだけで、変にビクビクしたりせず、目の前の仕事に集中できるようになったのだ。
……たまに、先輩に見とれてミスしちゃうこともあるけれど。



……一方その頃。

「若利君、顔!顔!」

何も知らない者や牛島のファンが見たら、それは普段と変わらない精悍な顔つきにしか見えないのだろうが、天童はその異変を見抜いていた。

「……天童、静かにしろ」
「おっ珍し〜。苛々してんねぇ。般若みたいな顔になってるよ、若利君」
「般若……」

確かに、牛島自身、自分が最近何故か苛々している自覚があった。こんなことは牛島の人生において初めてのことで、メンタルのコントロールができていないということだと考えてバレーボールの練習に打ち込んだのだが、オーバーワークをコーチに指摘され、渋々今日は休みを取っていた。そこへタイミングよく天童が現れたため、バイト後の時間を共に過ごしていたのだが、何故かますます苛々が募っていくのを牛島は自覚していた。

「苛々の原因は自覚あるのかい?」
「……いや。しかし傾向は掴んでいる」
「傾向?」
「バイト中と、自宅にいる時に増すようだ。だから、練習から離れることで感じる自責が原因だと考えたがどうも違うらしく、練習中にも微かに苛立ちを感じていることに気がついた」
「ふむふむ。今までで一番苛ついたのは?」
「……今、かもしれん。苗字と店長が二人して店の奥に行くのが見えた。仕事中にへらへら笑っているとは余裕なものだな」
「あー、なぁるほどねー」
「あとは、深夜に隣の苗字の部屋から電話か何かだろうが話し声や笑い声が聞こえてきた時も苛立ちを覚えた。向こうも壁が厚くはないことは承知のはずだ。安眠を妨害された」

至って真剣に話す牛島に、天童はゆっくりと笑みを浮かべた。牛島は、頭は悪くないはずだ。自分の疲労感を的確に察知することや、メンタルのコントロールも上手い。だというのに、ここまで自分の気持ちに疎くいられるものだろうか、と。

「若利君、俺は原因、わかっちゃったよ」
「む……?教えてくれ」
「ほんっとーにわかんないかなァ。……全部、苗字ちゃん関連ってことは、気付いてる?」
「……いや、気がつかなかった。言われてみれば、確かにその傾向はある」
「……若利君って、スゴイのか、バカなのか」

天童は呆れて、彼のお気に入りであるビーフシチューをすくって口にいれる。生涯をバレーボールに捧げ、ここまで気持ちというものに鈍感になってしまった友人に憐れみと愛おしさを感じながら。

「若利君。それって、ヤキモチって言うんだよ」
「ヤ……?」
「うかうかしてると、その辺の奴に取られちゃうよ。苗字ちゃん、わりと可愛いんだから」
「……」

言葉を失う牛島を、天童は愉快そうに眺める。これは面白くなりそうだ、と口角を上げた。



どこか近くからお風呂の匂いがする。ミスなくバイトを終えて、しかも新しい仕事も任されたりして、私にとってはなかなかのめでたい日だ。シフトを終えてバイト先を出る瞬間、こんなに満ち足りた気分だったことが、これまでにあっただろうか。
家までの十数分を、るんるん気分で歩く。今日の夕飯は何にしよう。家に一旦帰って、荷物を置いてからスーパーに行こうか。
自宅に戻ると、まず冷蔵庫の中身をチェックした。にんじんと、牛肉がある。……私の頭には、必然的に、あの食べ物と、あの人の顔が思い浮かんだ。……するとその時。
ピンポン、とインターホンが鳴った。まさかね、と思いつつ、期待に胸が踊る。

「……はい」
「苗字か、夜分にすまない。今大丈夫か?」
「だ、大丈夫です!今玄関開けます!」

まさか本当に牛島先輩だったなんて。もうあの原始人みたいな訪問方法はやめたらしい。戸惑いと期待と不安が入り交じりながら、私は玄関を開けた。

「えっと、どうしました……?また肉じゃがが欲しいとか?」
「いや、それはもちろん食いたいが、根菜は炭水化物だからそう頻繁には食わない。今はその件ではない」
「そうですか……」

ふと、(主に臭いと味の)嫌な記憶がフラッシュバックし、思わず牛島先輩の手元を見た。先輩は、この前のような深い皿は持っていない。代わりに、包装紙に包まれた平たい箱のような物を持っていた。

「実は、折り入って頼みがあり、こうして訪ねた」
「頼みですか……?」
「ああ」

牛島先輩の『頼み』には、あまり良い思い出がない。そう思って先輩の方を見ると、突然先輩は、バッ!!!と物凄い勢いで、いつかと同じようにお辞儀をした。前と違うのは、両手で箱を持ち、私に差し出していることだ。

「えっと……」
「苗字、無理を承知で申し込む。俺と、結婚を前提に交際してくれないか」
「え?…………えええええええーっ?!?!?!」

信じられない……!ていうかほんと色々信じられない!!
色んな気持ちが入り交じりながらも、私はとりあえず、「えっと、頭を上げてください……」とだけ言った。『頭を上げてください』って二度も言う人生、ある?

「あ、あの……」
「これは、菓子折りだ」
「菓子折り……」

で、出た。牛島先輩の、礼儀はあるが常識ないヤツ。

「受諾か?拒否か?」

ギャグを言っているのではない。牛島先輩はただ真剣な目で、こちらを見ている。表情がないのはいつも通りだ。いつも通り、真摯な瞳で、私を惑わせる。

「受諾、です……」

牛島先輩の表情が、パッと明るくなった、気がした。気がしただけだ。実際には表情は変わらない。

「ああ、よかった……。誓おう。この先、苗字のことは俺が守ると。この命がある限り」

今まで、牛島先輩がいてよかったと、何度も思った。これからもきっと、何度も思うだろう。なにせ、牛島先輩が、命ある限り守ってくれると言うのだ。私は涙で前が見えなくて、ただうんうんと頷くくらいしかできなかった。


(2021/7/24)




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