砂糖とスパイスと無敵な何か


もう何周したかわからない。朝の山手線というやつは、どうしてこう寝心地が良いのだろうか。ふわふわした頭と鉛のような身体を背もたれに預けて、目的の駅を寝過ごしてはもう一度目を瞑った。微風のクーラーが汗ばんだ肌を冷やして心地よい。前に立つサラリーマンが私を睨んでいたような気がして、遠のく意識の中で伝わるはずのない謝罪の念を送った。ほんと、マジ、ごめん。
ようやく大学へ辿り着くことができたのはお昼過ぎのことだった。ああ、本当は1限に出たかったのに、なんて後悔してみたところで、昨日の私が終電に間に合わせて飲み会を抜け出してくれるわけでもない。そうだ。後悔など無駄な行為。私に落ち度はなかった。そう思うことにしよう。


「あ、いたいた。おはよー斉藤、いつものやつ。ちょうだい」
「ブッ、……おそようございます〜名前さん。あれあれぇ、もしかして今来たんですかー?今日は山手線何周したんです?」
「うるせーバーカ」

クソガキのような私の悪態を気にも止めず、「そもそも僕が学食にいるってよくわかりましたね」と呆れた顔で鞄を漁り始めた。そんなものは今日の日替わりランチがお蕎麦だった時点で愚問である。斉藤は「そんな単純人間だと思われてたなんて心外だな〜」と眉尻を下げながら、「ま、実際ここで蕎麦食ってるわけなんですけど」と笑った。テーブルには、ふやけかけの衣が浮いたお蕎麦の隣に、別売りのコロッケが乗っていたであろう空の小皿が並んでいる。視線を斉藤に戻すと、「あったあった」とへらり笑って鞄の底から小さな紙箱を取り出した。

「まったくー、そろそろ自分で持ち歩いてくださいよぉ頭痛薬くらい」
「これこれ!ありがと〜、助かった」

私は錠剤をプチプチと2つ手のひらに転がして、ヘパリーゼで一気に流し込む。

「うげぇ……えげつねえ飲み方」
「ぷはっ!う〜〜んまずい!」
「でしょーね!!てか、僕の話聞いてましたぁ?」
「斉藤がいつもくれるのとおんなじやつ、こないだ買ったんだけどさ。いっつも持ち歩くの忘れんの。でも結局斉藤がくれるし、まあいっかーと思って」
「……いや僕も結局あげてるから何も言い返せないんですけどね?はあ、なんつーかほんと、アンタって人は……」

そこまで言って、はぁ、ともう一度クソでかいため息をつかれた。ズボラとか、バカとか、めんどくせえとか。その先の言葉をいつも言わないでいてくれるのはきっと斉藤なりの優しさなんだろう。いやでも全部顔に出てるけどなお前。
もう一度箸を持ち直した斉藤は、私のせいでコロッケがふやけただとか難癖をつけてきた。そんなの知るか。「でもふやけた衣もそれはそれで好きじゃん」とか適当なこと言ってみたら「そうなんですよ」とかいって急に納得しだしたからウケた。なんだコイツ。


「じゃ!私3限出るからバイバイ!薬ありがとねー!」

蕎麦食べてる斉藤を観察し飽きたので、早めに教室に行って寝ることにした。勢いよくリュックを背負って立ち上がると、「いやマジで薬だけ貰いに来たのかよ!」という小言(ツッコミ?)が聞こえてきたが、奴はすでに私の遥か後ろ。時間は有限だ。多忙な私には斉藤なんかに構ってる時間などないのである(斉藤が聞いたら、どの口が言うかとか言われそうだ)。



5限まで終えた私は、一体誰が予測できただろうか、昨日と同じ飲み屋で昨日と同じドデカジョッキのビールを飲んでいた。
いや、違うんだ、聞いてくれ。学校から帰ろうとしてたら斉藤から「今暇です?飲み行きましょー」ってLINEが来たから「二日酔いだから無理」って返したら、「ふざけんな」って返ってきたんです。マジ、あいつ、先輩に向かって。いや確かに?飲みのときの介抱とか翌日のモニコとか挙句の果てにはレポート手伝ってもらったりとか?それはもう色々と、本当いつもいつも大変お世話になってるというのに?最近斉藤とは飲み行けてないわけだし?さすがにキレられるのも仕方ないよな?うん、そりゃもう、断れないよなー?などなど脳内で白熱した議論が行われた結果がこれなんです。違うんですよ。
私は今日もこうして砂肝の串を外しながら、誰にしてるのかもわからない言い訳を頭の中で必死に垂れている。ほらみろ、後悔なんて、後にも先にも役に立ちやしない。

「いや、自業自得でしょアンタの場合」
「聞こえてんのかい」
「ベラベラ語ってましたよ」
「マジ?!私きもっ」

ハイ可愛い可愛い〜と嘘くさい笑顔で小馬鹿にされたので、腹いせに斉藤のドリンクを勝手にもう一杯追加注文してやった。もちろん、大きいサイズで、と伝えるのも忘れずに。「ハァ?!まだこれ3口しか飲んでないんですけど!?」いやいやそんなの、一気に飲み干せばいいんだから、そんな怒ることじゃないでしょって。

「俺の膨大な恩を仇で返しやがって……」
「も〜、そんなに喜ばなくてもいいんだぞ〜」
「いよっ、アルハラセンパイ」
「あは、でも、好きでしょ?」

好きですけど!イッキはキツいんですって、と返ってくるのを、飲みたくて堪らなかったくせに〜、と茶化す、はずだったのに、想定していたやりとりはなぜか起こらなかった。いつもなら小気味良く切り返してくるはずのタイミングは沈黙で終わる。崩れたリズムに違和感を感じて斉藤を見ると、変な顔して私を見ていたので、思わず目が合ってしまった。らしくないテンポの悪さで、気の抜けた声で、「は?」と言った斉藤の、箸を持つ手は止まっていた。
あ、違う。そう言いたかったわけじゃない。
慌てて「酒」と声を出すと、斉藤は安堵したような、緊張したような、さっきとはまた違った変な顔で大きく息を吐いた。

「好きですけど。イッキはキツいんですって」

私はなぜだか少しホッとしていて、「ツッコミ遅えよ」と笑うのだった。



(2021/9/25)
prevnext


backmatinee