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小学三年生の冬、音羽つばさは人生の転機を迎えた。
ここで言う転機とは決して良い意味ではなく、当時のつばさにしてみれば最悪と呼んで良いほどの見事な転びっぷりであった。まさに病院搬送レベルの大怪我を負ったのだ。この病院搬送というのは決して比喩ではなく、文字通り、つばさは正真正銘本物の救急車に乗せられて夜間の緊急外来に飛び込んだのだった。
ちなみに、人生初の救急車乗車体験は、残念なことに何一つ記憶に残っていない。ただ朧げになる意識の中で聞いた救急車のサイレンの音だけが、いつまでもはっきりと耳に残っていた。
まあ、大袈裟にあれこれ述べてみたが、つまり何があったのかと言うと。
「喘息、ですか……」
そう、つばさは喘息の発作で呼吸困難に陥りぶっ倒れたのである。
「つい先日まで、元気に野山を駆け回っていたこの子が……?」
困惑顔で言う父親の気持ちがつばさには痛いほど理解できた。当時のつばさは「山猿」などという女子としては大変不名誉なあだ名を頂戴するほどの、男子顔負けの活発な少女だったのだから。偏見ではあるものの虚弱な子供のイメージのある喘息は、当時のつばさにはあまりにも不似合いだった。
ただ少し注釈を付けるなら、兆候は以前からあったのだ。つばさも周囲も風邪の名残だろうと大して気にも留めていなかったが、咳は止まらないし、胸は苦しくなるし、ヒューヒューと喉を空気が通り過ぎる虚しい音も何度も聞いていた。夜間や朝方によく出た症状は横になれないほど過酷で、ひとり蹲って耐え忍ぶなんてこともままあったほどである。「寝る子は育つ」を信条としているつばさとしてはまったく散々な日々だった。
それでも、当初は少し休めばなんとか回復していたのだ。しかしそれが段々と難しくなっていき、そして先述の一大事に繋がったのである。
「二週間の入院だそうだ」
心配そうに、しかしどこか信じられない夢でも見ているような面持ちで父は言った。ちなみに父親と向かい合わせに座るつばさも、鏡写しのように同じ表情をしていた。母も、そして年齢制限に引っかかって面会できない3歳年上の姉も。言葉にするならば「入院て、マジか」といったところだろうか。それくらい、無病息災を絵に描いたような子供であったつばさには縁のない事態だった。
二週間の入院生活は退屈を極めた。
それもそうだろう。日頃から元気いっぱいに遊んでいた子供が(最近は走るたびに息苦しくなっていたのでそうでもなかったが)点滴を繋がれベッドの上でゴロゴロしていて暇がつぶせるだろうか。火を見るよりも明らかに、答えは否である。小児科病棟に付き物のキッズスペース(絵本やらおもちゃやらが大量にある)も、どうやら埃っぽいのか何なのかで咳き込んでしまい、遊び場とはならなかった。残念至極、とつばさは嘆息する毎日だ。
「……早く帰りたいなあ」
ぽつりと呟かれた言葉は、病室の白い天井に吸い込まれて消えていった。
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