そして退院後――4年生になっても、決して事態が好転したとは言い難かった。

「つばさちゃん、今日もお休みなの?」
「うん、まだ持久走はダメなんだって」
「へえ、いいなあ」

 私もサボりたい、と続けた彼女のなんと無邪気で残酷なことだろうか。いや分かる。そう発言した彼女はそこまで体力のある方ではないので、いつも体育の授業を憂鬱に思っていたのは知っている。しかし、しかしだ。……それを運動好きで有名だった、というより取り柄がそれくらいしかなかった自分に言わないで欲しいと、つばさはひっそりと唇を噛み締めた。

(羨ましいんなら、代わってあげたいよ)

 無邪気で残酷な友人の言葉に、つばさは大いに傷ついた。腹が立ったというより、とにかく悲しかった。あと、つい勢いで「代わってあげたい」などと思ったがそれは即座に撤回した(なぜならつばさはこの無邪気で残酷な友人をあくまでも友人だと思っているからだ。あんなつらい発作を友人に味わってなど欲しくなかった)。
 
(――もうやだ……)

 噛み締めた唇に血が滲む。
 今までできていたことができない。ただそれだけで、こんなにも不自由を、劣等感を感じるなんて、思いもしなかった。
 梅雨に突入しそうな今日この頃、ジメジメとした空気を太陽が明るく照らしている。しかしその光もつばさの心を晴らすことはできない。
 昼休みに教室に居るのは慣れなかった。かといって、今までのように校庭へと一目散に走っていくこともできなくて、いつしかつばさは体育館の裏に逃げ込むのが日課になっていた。そこは人の気配を感じさせない静かな場所だった。校庭の声が遠くに聞こえる。現実とベールで隔てられたような静寂は、なぜかつばさを苛む言いようのない喪失感と焦燥感に寄り添ってくれているような気がして、それなりに大きな心の慰めになっていた。
 しかし、感情とは不意に爆発するものである。ぐるぐるお腹の奥で渦巻いていた黒々として重たいそれは、まだ幼い子供には抑えようのない激情だった。
 ここに来る途中、滲む視界の先で同級生が駆け回っている姿が見えていた。
 その姿に抱いた嫉妬に似た憧憬と、悔しさ混じりの遣る瀬なさに、鼻の奥がツンとする。次第に目頭がじんわりと熱を持ち、涙が自然と溢れてきた。

(なんで、前みたいに走れないの)

 体は動くと分かるのに、それをすればどれだけ辛いことになるのかを一番に想像してしまう。

(くそう)

 ――こんなの私じゃない。こんなの音羽つばさじゃない。
 以前とのギャップに耐えきれず、幼い心はどんどん歪んで、軋んで、悲鳴を上げていた。
 ぽろぽろ落ちていく涙が、アスファルトの地面に滲みを作っては消えていく。

「……ねえ、大丈夫?」

 と。不意にかけられた声に、つばさはあからさまに肩を跳ねさせた。ちなみにその衝撃で涙まで引っ込んだ。いやだって、さっきまで誰の気配も感じなかったのだから仕方あるまい。まさか幽霊か。めそめそしてたから仲間だと思われたのだろうか。
 恐る恐る声のした方を見上げてみると、そこには髪の長い男の子がびっくりた顔をして立っていた。というより、怯えたような表情と言った方が適切かもしれない。背はつばさと同じくらい。でもなんだかつばさより頼りなく細っこい、気がする。顎くらいまでの長さで真ん中分けの黒髪、猫みたいに瞳の細い目。

(あ、この子、クラスメイトだ)

 とりあえず幽霊ではない。足あるし。
 つばさの通う小学校は二年ごとにしかクラス替えがない。つまり4年生のつばさとこの男の子は今年で二年連続同じクラスであるということだ。とはいえ、二人は一度もまともに会話をしたことのない間柄で、ゆえに一度も名前を呼んだことがなかった。

(いやでも、名前くらい覚えてるよ、たぶん)

 この子の名前は、そう、確か――。

「えっと、……こづめ、くん?」
「あ……うん」

 ――そうだ、コヅメケンマくんだ。
 一応覚えていたつもりだが、念のため「間違ってないよね?」みたいなニュアンスで名前を呼べばぎこちなく首肯を返される。よかった、あってた。つばさはホッと安堵に表情を綻ばせた。

「あ、の……音羽さん……」
「な、なに?」

 もしかしなくても、孤爪が学校で喋るというのは、国語の朗読を除くと初めてではないだろうか。つばさは謎の感動に打ち震えた。いや別に、つばさの前で話さなかっただけで、孤爪も全くの無口というわけではなかったのだろうが。それでもつばさは(極めて主観的な)歴史的瞬間に立ち会えたことに妙に感動してしまった。なんとも失礼な反応である。
 孤爪はキョロキョロと忙しなく視線を惑わせて、なかなか本題を切り出そうとはしなかった。

(あ、孤爪くんはあれかな、照れ屋さんなのかな)

 そう思ったつばさはそれはもう辛抱強く待った。普段は思ったことを口に出してばかりのつばさが幾分か成長した瞬間だった。と言っても30秒も待たされなかったと思う。

「だ、大丈夫、かなって……」
「え?」
「泣いてた、から……」

 それが、すごく辛そうに見えたから。
 そう続けた孤爪の視線も表情も、ひどく気遣わしげだった。つばさは思わず息を呑み、次の瞬間に思いっきり噎せた。

(くそう、喉痛い。格好悪い)

 おろおろと背中をさすってくれる孤爪に「大丈夫」と言えば、彼は安堵に表情を少しだけ崩した。ちなみに視線はすぐ逸らされてしまった。

(私よく目力強いって言われるし、怖いのかな……)

 地味に傷つきながら、つばさは先ほどの孤爪の言葉を、噛み締めるように反芻していた。孤爪には、つばさがすごく辛そうに見えたらしい。

『……ねえ、大丈夫?』

 ああ、そういえば、孤爪は最初からつばさにそう声をかけてくれたのだった。
 ――大丈夫、なのだろうか、私は。
 喘息については完治の見込みがまああるらしい。今後の地道な治療次第だとは聞いたけれど、まあなんとかなるだろう。ズボラな性格のつばさではあったが、さすがにあの大発作の後にはそれなりに慎重になっていた。その証拠にあれから毎日欠かさず薬を服用している。仕事の忙しい両親も薬の服用については目を光らせているし、しっかり者の姉は言わずもがな。
 ――では、それまでの道のり、私は大丈夫なのだろうか。
 今のままで、大丈夫なのだろうか。

(……大丈夫じゃ、ない)

 全然、全く、大丈夫なんかじゃない。

「――大丈夫、じゃ、ない……」

 言葉は無意識に零れた。

「だ、大丈夫、じゃ、ない……っ」

 容器の許容量を超えたように、涙もまた、次々と溢れ出てくる。

「大丈夫なんて、むりっ……!」

 ――なんで私なの。
 他の誰かが代わりになれば良いだなんて思わない。それでも、なぜ私なのかとは思ってしまう。否、ずっとずっと思っていた。下手に我慢した自分が悪かったのだろうから今まで一度として口には出せなかっただけで、でもずっと思っていた。
 だって今までずっと楽しく遊べていたのに。かけっこで一番早いのはつばさだった。誰にも、男の子にだって負けなかった。ドッジボールやバスケが好き。持久走だって、キツイけど嫌いじゃなかった。
 勉強はどれも苦手だったけど、体育だけはいつも一番だった。
 それだけが自慢だった。
 それが一番大好きだった。
 それなのに。
 それなのに、よりにもよって、なんで。

(苦しい)

 ヒュッと喉が鳴る。でもきっと、これは喘息の発作じゃない。今までとは違う不自由を感じたあの日から、ずっと胸につかえていた鉛を、もう誤魔化せなくなったのだ。じわじわと心を追い詰めてくる閉塞感から、目を逸らせなくなっただけなのだ。だから最近はこの場所に逃げ込んでいた。また、一人で耐え忍んでいた。

(苦しい、苦しい)

 動く手足はあるのに、なんで私は見ているだけなんだろう。なんで皆と同じようにできない? ああ、思い通りにならない体の、なんと煩わしいことか。

(苦しい、苦しい)

 あの日からずっと、世界に明けない夜が訪れてしまったようだ。どこを向いても月どころか星さえ見えず、夜道を照らすものは何もない。だからつばさは呆然と立ち尽くすしかなかった。

(苦しい)

 前なんて向けるわけがない。一寸先どころか、自分の今立っている場所さえ、闇の中なのだから。


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