紡ぐ頃にお会いしましょう
ぽつぽつ、ぽつ、と何か小さなものが顔に当たる感触がした。
雨だろうか。
薄明かるい意識の中で、ああでも、もう少し眠りたいなあと考えて、一寸の後に雨なら不味い、と気がついて急いで目を覚ます。
見開いた目の前には図書館の中庭と、池と、その向こうに小さな畑が整えてあって夕暮れの時を待っていた。落ちかけた太陽が緋色の光を池に写していて、薄桃色や水色をした雲は疎らに空に浮かんでいるだけだ。頭上に雨を降らせるような雲は無かった。
「ううん……。」
何だったのかと、固いベンチで凝り固まった身体を伸ばして深呼吸をすると、ぱら、と視界の端で膝に落ちるものがあった。
それは隣に置いておいた本の表紙にも溜まっている。近代文学書の明るく艶々した表紙に、しっとりした濃く明るい、甘い色の黄金。
「なんだ、金木犀か。」
ベンチの近くに植えられた金木犀から風に吹かれて散ってきたのだろう。
季節はもうだいぶ涼しく、秋らしくなってきたところだ。そう意識したところで風が首もとを触っていって、随分と身体が冷えていることを自覚した。
もう一度深呼吸をすれば肺の隅々にまで金木犀の香りが満たされる。
心地好い居眠りから覚めた気だるさと一緒に息を吐ききって、今度は煙草を咥え、最近司書から贈られた小さなライターで火を着けた。
そうそう、こういう季節の匂いを楽しむのも良いが、こちらの方が身に染みている。このまま煙草片手に戻れば、出入り口に貼られた「火気厳禁」の張り紙に阻まれて仕舞うだろう。昨今の分煙禁煙方針と、図書館という場所であるが故に、喫煙所はこのベンチ付近のみになっていた。
折角の休日だ。もう少しのんびりと、この空気を楽しもうではないか。
「こばやし、たきじ……くん?さん?」
「君だな、クン。多喜二は"元"年下だろ。」
「小林君かあ、そういえば、会ったこと無いかな。」
朝の食堂。
と言っても、もう昼に近いような時間に、二人は向き合って食事を取っている。早い時間に司書から緊急呼び出しを食らって、本来の朝食の時間に食べ損ねたのでこの時間になってしまった。
一緒に呼び出されていた谷崎と山本は、どうしても眠気に勝てなかったらしく、食堂常備のスコーンやらパウンドケーキをいくつか包んで、早々に自室に戻っている。
他に人はまばらで、食事よりも茶を淹れたりしに来た者ばかりだ。
本日は潜書をしない予定なので普通に昼のメニューを出してもらっている。盆にちょこんと乗った付け合わせのヒジキの煮物をちまちま拾いながら、芥川は首を傾げた。
「何だかんだと忙しかったのもあるが、お前の場合、根本から向こうと生活のリズムが擦れてるからなあ。」
逃げる大豆を取り敢えず諦めて、向かいに座った菊池を見た。
「それじゃあ仕方がないね。寛は会ったことあるんだろう?」
白飯を椀からごそっと掬い取って咀嚼していた菊池は、「少し待て」と言うような瞳で芥川を見たあと、噛むだけに集中している。自分も食べるのを再開しながら待つことにして、何故会っていないのかを考える。
比較的に最近この図書館に来たし、最初期から居るらしい、小林多喜二という青年に会ったことが無いのはなかなか珍しい気がしている。
思い返せば、図書館に転生したときは旧知やそうではない文士にも、やっと来たのか待っていたぞ遅いな本当に!だとか言われて、もみくちゃにされたのだ。どうやら転生したのが後ろの方であったらしい。
そこで大体の人間には会っていたはず。
疲れた顔でほっと息を吐いていた徳田や、その肩を労うように軽く叩いた佐藤、遠巻きにこちらを伺っていた無頼派と呼ばれる3人だとか。
そこから1週間ほど、代わる代わる挨拶しに来たり、芥川としては嫌な記憶だが取材しに来た男もいて、目まぐるしい日々だった。
「有るぞ。というか、時折将棋を教えているんだがな、頭が良いから覚えが早い。飯も食いに行くしなあ。」
「なんだ、仲が良いんじゃないか。知らなかった。」
「いやー、食べっぷりが良いから奢り甲斐があるんだ、これが。」
「君は本当に年下の男の子が好きなんだねえ。」
「おい待て、その言い方語弊があるだろ。」
確かに奢ったり金を貸したりしてたがそれは後進の育成のためであって、云々。
はいはい。
殆どを流し聞きながら考える。
小林多喜二とは。
身長は高いらしい。前と比べて幾分と身長が伸びた者は多いと言うから、前とそのままという訳では無い可能性の方が高い。かく言う芥川も身長が高くなった者の内の一人である。今の芥川とおおよそ同じくらいだと聞いた。
髪は紫紺だが、大体コートに付いたフードを被っているのでほとんど隠れているという。
青年というのであれば、見た目の年頃は20歳前後位だろうか。
確か、第一か第二会派だったはずだ。芥川は臨時に組んでいる会派の所属なので、一緒にはならない。
「お前は一度、前に会ってるらしいな。」
「そうなんだ。……えっ?前?!お、覚えてないよ。」
「今ボケッとしたまま返事しただろ……。まあ、この身体は記憶が曖昧だからな、仕方ない。」
プロレタリア文学の旗手とも言われているのは知っている。
だけれども、どうも蟲に喰われたような記憶の中にはその名前が見つからない。
記憶、というか記録、と言っても良いのかもしれないが。
「ううん……。」
「その内に会えるだろ。気になるなら中野か徳永あたりに聞けば良い。それか志賀さん辺りに。」
「志賀さん?」
「多喜二の事、目に掛けてるからなあ。」
「そう……。」
振り向いて、白い後ろ姿を見た。
彼は芥川がここに来る前から居座っていて、焼き菓子の試作を、その親友と彼是と吟味しているようだった。
見られているのに気が付いたのか、振り向いたその明るい瞳と視線が交わる。ひらりと降られた手に会釈を返して、自分の食事に向き直った。
無理矢理会おうとしなくても、菊池と将棋を打つようだし、いずれ会うであろう。
広い図書館だが、狭いコミュニティだ。
早ければ、部屋に戻る帰りの廊下で会う可能性だって有るわけであるし。そう考えて、少し温くなった茶を飲み込んだ。
「存外、会わないものだねえ……。」
季節が一節季ほど移り変わって、雨のようにポツポツと降っていた金木犀はすっかり散ってしまっていた。
中庭のベンチに腰かけると、足元の草花が大人しく枯葉色になってしょんぼりしていて、秋が深まったなと思う。
あの志賀直哉が気に掛けている文士、というのが、心に残っているらしかった。
それは変に名のある感情ではなくて、ただ単純に、どんな男なんだろうなあ、という興味である。
そのうちに会えるだろうと思っていたが、ニアミスすら稀であった。
別に、避けられている訳ではないと思う。
生活のリズムが違うとは、有り体に言ってこういうものなのだ。
だが恐らく、芥川が図書館で会ったことが無いのは、残すところあと一人。小林のみであろう。そろそろ誰かに紹介でもしてもらおうかとも考える。
考えて、思わず喉の奥で笑ってしまった。
紹介だなんて、煩わしいことも多くて嫌っていたものなのに。
それこそ前のように、締切を追いかけて来た編集者や、新しく連載をやらせたいどこそこの出版社の営業だとか、御抱えの装幀家だとか、講演依頼の若手作家やら関連のエトセトラの連絡も今は無い訳で。
そういったことが無いから、何々さんの紹介だから宜しく計らってくれよ、なんてことも無い。
ああ、気が楽だなと思っていたのになあ。
少しだけ、探してみようかと煙を吐き出す。
「おーい、龍。」
「えっ、う、げほっ、し、志賀さん?」
「ああ、大丈夫か?驚かせて悪いな。」
ぼんやりした頭でなんとなく横を向いたら、尊敬する男がベンチの背もたれに肘をついて、こちらを覗き込んでいた。いつの間に来たのだろうか。余程、心ここに在らずだったのか。派手にビクついてしまって決まりが悪い。
少々噎せた芥川の背を軽く擦りながら、隣いいか?と聞いてくるので、勿論だと返す。
「さすがに肌寒いな、ここで煙草喫んでて冷えないか?」
「確かに少々冷えますが……、煙草が優先ですから。」
「はは、確かに、もうここしか図書館内の喫煙所は残ってないからな。」
浅く座って脚を組むところを見るに、長居はしないつもりなのだろう。そろそろ潜書しない居残り組は夕食の時間帯であるし。
「どうかされたんですか?」
「あー。どうもしないが、龍、お前、多喜二に会ってないだろうと思ってな。その内に会いに来ると思うぞ。っていう報告。」
「へ。」
「まあ、悩んでいないでしゃんとしろ、って促しただけなんだが。」
放っておいても良かったが、何せ仮にも俺達は戦ってる身の上だしなあ、もう半年近くにもなるからさすがにな、云々。
少々眉間に皺を寄せながら話すその横顔を、半ば呆気に取られながら見やる。
"悩んでいないでしゃんとしろ"ということは、行き逢わないのは偶然だと考えていたが、少々避けられてもいたのだろうか。それでも会いに来ると言うのであれば、そこまで嫌われている訳ではないようだけれど。
「それだけだ。邪魔して悪かったな。」
「いえ、大丈夫です。それに、彼の事も。僕もそろそろ挨拶せねばと思っていたので……。」
「おっ!じゃあ良いタイミングだったな!」
ニカリと笑って、冷えた秋風を纏いながら立ち去るのを見届けて、視線を目の前に戻す。一口、煙を喫んだ。
曰く、避けられていたらしい。
絶妙に、微妙にショックである。
これが何とも思っていない相手なら兎も角、少なからずどんな男なのかと興味はあったのだ。
たっぷりと時間を掛けて煙を吐き出して、いつ来るのかと無駄な考えを巡らす。
こうやって思考を遊ばせていると目の焦点がずれてきて、見えているのに見えていない時間が嫌いではなかった。
そうやってどれだけぼんやりとしていただろうか。
日々の惰性で、煙草は恐らく無意識に三本くらい吸い終わっているだろう。それは分かる。紙箱の中身が朝に比べて寂しくなっていた。
そろそろ戻らなければ、夕食を食べ損ねてしまうなと意識を戻したところで、背後でさくさく、さくさく、と音がするのに気が付いた。
乾燥した葉を踏む音だ。こちらに近づいてくるのが分かる。
丁度吸い終わりの煙草を灰皿に擦り付けて、袂に箱をポイと投げ入れて振り返ると、相手も植え込みの向こうから顔を出したところであった。
「っあ、」
ああ、早速会いに来たらしい。
そうか、彼だったか。
紫紺の髪が、フードでほとんど隠れている。身長の高い、すらりとした印象の青年だ。
芥川が振り向いているとは思ってもみなかったのか、合った目線に動揺したように、フードを掴んで少しうつむいてしまった。
「……はじめまして、小林くん、かな?志賀さんから、話は聞いているよ。」
彼は年下だと聞いている。
後輩を見る気持ちで促すように話しかけると、意を決したように話し始めてくれた。
「あの、挨拶が遅れてしまって、すみません。小林多喜二、といいます。」
「うん。よろしくね。僕の名は芥川龍之介。」
「よろしくお願いします。芥川サン。」
おや、話してみれば、存外落ち着いた声色でハキハキと話す男である。何故か先ほどから、少しばかり目線が泳ぐし、腹の前辺りで祈るように組み合わせた手は、ギュウと力が入っているけれど。
「会いに来る、って志賀さんが言っていたけれど、随分早くに来てくれたね?」
「そ、その、もう少しで食堂を閉めてしまう時間なので、呼びに行くって言ってた堀サンの代わりに。」
「ああ、別に、皮肉ではないよ。僕も挨拶に行かなかった訳だし。お互い様。」
ギュウウ、とより深くなった手の食い込みを見て、少々誤解をさせたかと、慌てて補足する。芥川がベンチから立ち上がって見ると、ほっとしたように力を抜いたようだった。
どうしたことだろうか。
何故こんなにも芥川相手に緊張しているのだろうか。
赤い彼のような反応でもないし、あの取材中毒の男のようでもない。何かの拍子に過去を知ったらしい徳田秋声が、一番近い反応をしていたかも知れない。
芥川の身体も警戒で少し強張った。
「さて、食堂に向かおうかな。君は、食事はもう摂ったかい?」
「俺もまだです。さっき潜書から帰って来た所なので。」
「なんだ、疲れているのに来てくれたのかい?」
「いえ、その、決心が鈍らない内に……、」
「決心?」
「あ。」
余程緊張していたのがほどけたのか、ボロが出たようだ。静かで冷たい印象すら抱かせるような意思の強い瞳が、しまった、とばかりに見開かれる。
第一印象より余程分かりやすい子だな、というのが芥川の感想であった。
心なしかアワアワとフードを目深にかぶり直すが、赤くなったあとに直ぐ血が引けて行って、今は真っ白な頬が隠せていない。
こんなに素直な反応をされてしまえば、念のため警戒していた芥川の肩からもすっかり力が抜けてしまう。逆に憐れで構いたくなってしまった。
「決心?」
畳み掛けてみる。
「その、あの……、」
「うん?」
「俺、前に、芥川サンとは会ったことがあって、」
そうやって、食堂への道すがら聞いたのはこういうことであった。
前に、芥川は里見と共に北海道小樽へ、講演会に訪れていたらしい。
小樽に居た小林は、時代の寵児とも言える芥川達の講演会をそれはそれは楽しみにし、交渉までして歓迎会を催したのだった。
それは小林の記憶の中に、良い思い出として健在なのだが、何せここは国定図書館である。
その時の芥川側の記録も、調べてしまえば分かってしまうことであって、小林は自身の記録を読み返す内に、芥川側の記録を垣間見てしまっていた。
「芥川サン、長旅で疲れてるのに、その、申し訳なくて………。」
どうやら、自分達に付き合わせて無理をさせてしまっていた、と、そう考えて悩んでいたらしい。それで、合わせる顔がないと。
志賀の口振りと先ほどの自己紹介からすると、こんなにしどろもどろしながら話すのは、彼にしては珍しいのだろう。また、ギュウウと手を組み合わせて握っている。
芥川はというと、「なんだ、それを気にしてくれるなんて律儀な男だな」と思っていた。
正直、芥川の方にその記憶は今のところ見つかっていない。話を聞くに、講演会と移動を幾日も繰り返すような強行軍だったようだし、自分の講演会を聞いた後進がこうやって、転生するほどの人物になったのは喜ぶべきことであろう。そう思った。
「ありがとう、気にしてくれて。大丈夫だよ、あまり気にしないで、とりあえず今は、僕と一緒に夕食を食べよう?ね。」
「で、でも、」
「他ならない僕が言うんだから、大丈夫。里見が来たときにでも、その気持ちは取って置いてよ。」
ぽんぽん、と二の腕辺りを軽く小突いて、今日の夕食はなんだろなと食堂の扉を開ける。
慌ててその後ろに付いてきた男を見やって、芥川は自身の機嫌が上向きなのを感じた。ゆっくり、話をしながら食べよう。そう思えるほどには、小林多喜二という人物は好印象に映っていた。
おわり