傘の下、ふたり
「あ、傘忘れた」
閑散とした放課後の昇降口。ボタボタと大粒の雨が降り注ぐ灰色の空を見上げながら恐らく先輩だと思われる男子が抑揚のない声でポツリと呟いた。
しかもタイミングの良いことに隣で俺が傘を広げたところで、だ。こんなボーッとした表情をしておきながら実は策士なんじゃないかと思うほどに絶妙なタイミングであった。
「傘、入ります?」
横から声をかけると、先輩(ということにしておく)が俺を見て「いいの?」と聴いてきた。
いいの?も何も、隣であからさまに困った表情をされては素通りしづらいに決まっている。他人の良心を逆撫でするような発言をしておきながら何を今更、とは思ったが俺は至って表情を変えることなく淡々と答えた。
「いいですよ、俺家近いんで徒歩ですし」
「そっか、俺も家近いよ」
「なら助かります、行きましょうか」
俺よりも10センチほど身長の高い先輩へ傘が届くように腕を上げる。こんなことは初めてにも等しいので今更気づいたけど、身長差があると傘の中に入って歩くだけでも大変だ。
「腕、辛いでしょ」
「いえ、大丈夫です、お気遣いなく」
「無理しなくていいよ」
そう言って先輩は俺の右手からあっさりと傘を奪い取った。
「あの……ありがとうございます」
「いやいや、入れて貰ってるんだしこれくらいはしないとね」
「えっと……先輩、ですよね?」
「うーん、たぶんね、君一年でしょ」
「はい、先輩は二年ですか」
「二年生に見える?一応三年なんだけど」
「あ、そうなんですか、すみません」
「いいよいいよ、別に気にしてないからさ」
そう言った先輩は本当に何も気にしていない様子で、淡々と歩みを進めた。
見た目の印象からしてボーッとしている感じの人だったから意味もなく三年ではないと思い込んでいたんだけれどどうやら違ったらしい。
何となくだが、三年生は最近まで中学生だった俺から見ればかなり大人なイメージだった。だからなのか、こんな三年生もいるだな、と少し驚いてしまった。
そんな事を考えている間に雨足がだんだんと強くなってきた。最近は梅雨入りしたおかげで毎日のように雨が降っている。こんな時期に傘を忘れる先輩はよほど抜けている性格なのかもしれない。
「美味しそうな匂いがする」
「は?」
隣を歩く先輩が不意にそんなことを言い出したので、俺も鼻をスンスンと利かせてはみたがどこからも美味しそうな匂いはしなかった。辺りを見渡してみても家が連なっているだけでお店なども建っていない。もしかしたら晩御飯の準備をする家から匂いが漂っていたのかもしれないけど、梅雨の時期特有の湿った雨の匂いのせいで何も感じなかった。
「先輩、鼻が利くんですね」
「……そうかな」
「だって俺何にも匂いませんでしたもん」
「君が鈍感なんじゃない?」
「それは、そうかもしれないですけど……」
「あは、冗談だよ、意地悪言ってごめんね」
そう言って先輩は困ったように眉を下げて笑った。言い返してやろうと思っていた心がその表情で一瞬にして萎んでしまった。
「君の家はこの辺?」
「はい、もう少し先ですけど」
「俺の家、ここなんだ」
先輩が立ち止まって、小さな二階建てアパートを指差した。外観は白と赤で統一され、二階に繋がる鉄階段のすぐ横には駐輪場が設備されている。新築とまではいかないだろうけれどそれなりに手入れもされていてとても綺麗なアパートだった。
「傘、入れてくれてありがとう」
「いえいえ、俺の方こそ傘持って貰えて助かりました」
「あれくらい大したことないよ。そうだ、せっかくだし名前教えてよ」
「いいですけど……
「紫苑くんね、覚えた」
「先輩のお名前は?」
「俺?俺は……
「へえ、今の時期にぴったりの名前ですね」
そう言うと先輩は少しだけ驚いたような顔をしたあと、なぜだか嬉しそうに微笑んだ。
「紫苑くんも良い名前だね、すごく似合ってると思うよ」
「……ありがとう御座います」
名前を褒められたのは初めてだったので、何だか照れてしまった。変わった名前だねとか女の子みたいな名前だねとは何度も言われたことがあるけれど。似合ってるなんて言ってくれたのは、時雨先輩が初めてだ。
「あ、そうだ」
と、まるで何かの忘れ物をしたかのように先輩がおもむろにポケットの中をまさぐり始めた。
「これ、紫苑くんにあげるよ」
そう言って俺の掌にぽとりと落とされたのは蜂蜜味のキャンディーだった。
なんでこのタイミングなんだろうと不思議には思ったが黙って受け取っておくことにした。
「また明日、会えるといいね」
「はあ……」
呆気に取られる俺を置いて先輩は今度こそアパートの中へ姿を消してしまった。