ふしぎな先輩


 梅雨はあまり好きじゃない。制服がまとわりつくジメジメした感じも、ちょっとした風ですぐに濡れてしまうところも、お気に入りの屋上が雨のせいで使えないことも、理由を上げだしたらキリがない。だから当然、俺にとっては気分が下がる一方だ。
 そんな時にまさか昨日会ったばかりの先輩と遭遇することになるなんて考えてもみなかった。

「俺は雨、好きだけどな」

 時雨先輩の耳に残る低い声が静かな図書室に響く。
 借りていた本を返しにやってきた先輩と図書委員の仕事を真面目にこなしていた俺が再会したのはついさっき、またもや放課後のことだ。

 「梅雨の時期になぜ傘を忘れたのか」という俺の質問から始まり「うっかりしていた」との返事の後に「だけどそのおかげで紫苑くんに出会えたから終わりよければ全てよしだよね」という何とも脳天気な感想までもが付け加えられた。そして俺は悟った。この先輩はやはりどこか抜けている、と。
 そこから何だかんだ話が脱線していき、今の会話に至る。梅雨が嫌いだと言う俺とは、まったく逆の意見だった。

「何で好きなんですか?傘とか持ち歩くの大変じゃないですか」
「……はちみつ」
「はい?」
「いや何かさ、空の上から水滴が落ちてくるのってはちみつに似てるなって、幻想的だし」
「……よく分かりません」
「あはは、そうだよね」

 時雨先輩はまた、昨日と同じ困ったような笑みを浮かべた。

「そんなことより紫苑くん」
「何ですか?」
「オススメの本とかないかな」
「どうしたんですか急に」
「紫苑くん図書委員だし詳しそうだから」
「本には人それぞれ好みがあるじゃないですか」
「うん、だから、紫苑くんが好きな本を読みたいんだ」
「………」
「どうかした?」
「いえ、別に」

 出会ったときからそうだった。時雨先輩には壁がなくて、その代わりに此方が作った壁にも簡単に乗り越えてきてしまう。それなのに、時雨先輩にならそれも悪くないと思えてしまうから自分でも不思議だ。

「じゃあこれ、貸してあげます」

 ちょうど読み終えたばかりの文庫本を時雨先輩に手渡す。俺が好きな作家の小説で、最近映画化もされたらしい。もしかしたら既に読んでしまっているかもしれない、という考えが一瞬頭をよぎったけれど、時雨先輩が嬉しそうにその本を受け取ってくれたので取り敢えずホッとした。

「俺ちょうどこれ読みたいと思ってたんだ。うわあ、嬉しい。ありがとう紫苑くん」
「……いえ、面白かったですよ」
「本当?楽しみ」
「ラストは主人公死んじゃいますけどね」
「え……」
「嘘です、適当に言っただけ」

 想像していたよりショックな表情をされたからまさかそれが本当だなんて口が裂けても言えなかった。
 時雨先輩があまりにも嬉しそうに笑うもんだからつい意地悪をしたくなっただけだったのに。こういうところが“可愛げがない”ということなのだろうか。

「紫苑くん、図書委員の仕事はいつ頃終わるの?」
「もうすぐです、最終下校時刻まではカウンターについてなきゃいけないので」
「毎日?」
「いえ、当番制なので週に二回ほど」
「そっか、大変だね、外も暗くなるし俺が送っていこうか」
「いや、別に俺女でもないし……」
「昨日の傘のお礼だよ、今日はちゃんと傘持ってきたからさ」
「………」

 どうやら一歩も引かないつもりでいる先輩にこれ以上言っても仕方ないと観念した俺は大人しく時雨先輩に送ってもらうことにした。