春の爽やかな風とともに、草花の豊かな香りがほのかに鼻腔をくすぐる。雲一つない青天井の下に広がるのは、緑の草原を白く縁取る十字架の大列であった。
 どうやら昨夜、身内の者が逝去したらしい。
 喪服を纏ったナナーシは、墓前に手を合わせた後もぼんやりと立ち尽くしていた。

 眼前で安らかに眠るのは、父の妹にあたる夫婦だという。交通事故の被害に遭ったそうで、以前目にした新聞にもそのことが小さく記事にされていた。
 しかし親戚とはいえ、実際は会ったことなどナナーシにはなかったのだ。現実味が湧くこともなく、顔も知らぬ親族に弔いの言葉もうまく出てこない。ただただ大きく息を吐き、背後から嫌でも聞こえてくる口論に耳を塞ぎたくなるだけだった。

「この子の家からは私が一番近いのよ?地区が変わることもないし最も適任だわ!」
「そうかァ?あんた鬱陶しいガキだけ残ったのか、なーんて昨日まで言ってたのに心変わりでもしたのかねェ」
「うっさいわね!このド腐れ男がッ!」
「オイオイ落ち着けって〜、喧嘩はなしにしようぜェ?」
「まあ怖い!そもそもこの子とは私が一番会って面倒みてきたんだから、私が適任じゃない?」
「子どもほったらかしにして男と会うアバズレは黙ってなさいよ!」
「なんですって!?」

 ナナーシは喚き立てる大人達を背後に呆れてかける言葉も見つからず、天を仰いだ。

 夫婦には一人息子がいたらしい。小学生の男の子で、空と同じ色の珍しい髪はウェーブを巻くようにクリクリと跳ねていた。両親の保険金を否応なしに引き継ぐことになった結果があのザマだ。
 彼らにとって子どもは遺産のついでについてくるお荷物にすぎないのだろう。皮肉かな、親代わりを申し出る者はこんなにも多く引く手数多だというのに、誰が引き取ってもロクなことにならない現実が待ち構えているのだ。

 端で放置されている当の子どもは冷めた目でそんな状況を見守っていた。もしかしたら、何となく理解していたのかもしれない。

 それにしても、このまま財産目当てで引き取られるのはあまりに気の毒だ。子どもは親を選べない。

(あの子をこのまま、あんな奴らの元へ行かせるわけにはいかない)
 ナナーシは子供の側へと歩み寄り、論争の渦中へと身を投じた。

「この子は私が引き取ります」
「なによアンタ!横取りしようたって、そうはいかないわよッ!」
「いいえ、私は“この子”を引き取ると言ったんです」

 どうやらナナーシが想像している以上の金が、この子どもに分配されるらしい。

「この子に継がれる遺産は放棄するから、あとは好きにしたら」

 そう呟いたナナーシの声は、想像以上に低く冷めたものだった。

(こんなにサイテークソ野郎どもが一同に集まることなんてそうそう無いわ。私ったら何のためにもならない貴重な経験をまた一つ重ねてしまったようね)

「とか言って、お前全部ぼったくってとんずらするつもりじゃないだろうな?」
「そんな汚いマネしないわ。それでも不安なら弁護士を雇うことね。誓約書でもなんでも書くわよ」
「オイオイ、弁護士に金を割かせる気かよ」

(この薄汚い守銭奴がッ)
 このままではおそらく逃げる可能性を示唆され話は平行線に終わるだろう。そう判断したナナーシは、内心では悪態をつきながらも冷静に話を続ける。

「とにかく、私は本当に遺産を相続する気はないから。ただし一つ条件があるの。分かる?これは私が提示する条件との取引よ」
「……言ってみろ」
「私たちとの接触を一切断つこと」

 ただの口約束にするのではなく、お互いに条件をつけた取引にする。そうすることで少しでもこの子供を引き取る可能性を上げたかったのだ。

「悪い話じゃないと思うんだけど?」

 目の前に立つ男、もといナナーシの父親はニンマリと笑った。

「いいだろう!その取引、受けよう」
「ハァ〜〜?正気?嘘だったらどうすんのよ」
「また調べるまでさ。なーに、すぐ分かる」

 男はそれに、と続けて話す。

「俺は手が塞がるのが嫌いなんだ」

 周囲からの怪訝そうな視線を一身に受けながらも、ナナーシはなんとか子供を引き取れた結果に胸を撫で下ろす。ふと子供の様子を伺えば、子供は無表情でナナーシを見上げていた。

「あんなものに巻き込んでごめんね」

 しゃがみ込んで子どもの手を優しく握る。子供が目の当たりにするには、あまりに酷な論争だった。
 どうか、こんな下らない大人の傲慢に、傷つかないで。そんな気持ちも込めたナナーシの言葉に、子供は小さい口を開く。

「お父さんとお母さんは、死んじゃったの?」

 その言葉にナナーシはドキリとした。まだ何も知らなかったのだろう。そりゃあれだけ大声で騒ぎ立てもすれば、気づいてしまうのも無理はない。まるで心臓の裏側を撫でられたような感覚に冷や汗を垂らし、思い倦ねる。
 いくら思考を巡らせど、こんな時になんと答えればいいものか、それでもまるで分からない。

「…ええ、そうよ。二人とも亡くなったわ」
「ほ、本当に?」
「ええ」
「僕はお姉さんの所に行くの?」

 子どもの問いにゆっくりと頷く。両親の死を悟ってしまった今、変に誤魔化すことも悪手だと判断しての決断だった。

「私はナナーシ。あなたの名前を教えてくれる?」
「……ギアッチョ」
「ギアッチョね、素敵な名前」

 ギアッチョの手を飲み込んでいた小麦色の手が解かれ、再度差し出される。

「これから私がギアッチョの保護者になるわ。よろしく」

 ギアッチョはただただじっと、ナナーシの綺麗な手を見つめた。そこにどんな想いがあったのか、それはギアッチョにしか分からない。そしてナナーシを両の目で瞠目し、ゆっくりと導かれるかのようにそれに応じた。
 ナナーシはただただじっと、手に温もりが灯るまで待ち続けた。

 そうこうしている内に、とりまきの所謂サイテークソ野郎共も渋々ナナーシの意見に賛成した。意を唱える者もいたが、結局父親の威勢の良い言葉に呑まれたようだ。子どもへの被害を防ぐ形で終着したことにもまた、ナナーシはホッと胸を撫で下ろした。

 ともあれ、これで一子供の未来をナナーシが背負うこととなった。今知っている事はと言えば、子どもの名前に髪型、それと両手で抱擁したあまりに小さい手くらいなものである。今までどんな生活を送っていたのか、どんな食べ物が好きなのか、何色が好きなのか、休日は何をしてたのか、子育てとはどんなものなのか、無数に積み上がる知らない事の山。けれど、それに決して押しつぶされてはならないのだ。

 子どもを育てると決意した行動に、後悔の念など一抹も持ち合わせていない。知らなければこれから山を一つ一つほぐして、少しずつ知っていくしかないのだ。

 ギアッチョとの暮らしを、手を取り合って、決して離さないように、二人で歩いていく。そうして未来を共に過ごしたい、彼女は強くそう誓った。

 ナナーシの子育て生活に火蓋が切られた、そんな日のことである。春の麗かな陽気だけが二人の門出を祝福するかのように、温かく包み込むのだった。


+×÷-



 40平米の1DKと一人暮らしにはやや広めのアパートの一室に私は住んでいる。都心からは少し離れた小さな町の片隅に腰据えていることもあり、家賃はかなり良心的な価格だ。

 身内の子供を突然引き取ることになった今、シェアルームをして生活する者が多い中一人での暮らしを選んだのは幸運だった。もし誰かとシェアしていようものなら、相手への相談もなくギアッチョを引き取ることは厳しかっただろう。

 備え付けのダブルベッドにダイニングチェアも二つ。前の入居者が二人で暮らしていたのだろう。住人が一人増えても家具に困ることもない。それなりの貯金と毎月の決して安くはない収入をやりくりすれば、金銭面も困窮することはないと思いたい。
(学費も無料だし、怖いのは医療費くらいね…。できるだけホームドクターに頼って、あとは残念だけど習い事を一箇所に絞れば何とかなるかしら)

 ギアッチョの住まいから生活必需品を無事回収し、役所で手続きも済ませ、ゆっくりな足取りで帰路についた。と言っても、学校で利用する文房具や妙に少ない衣服とリュックサックに収まる程だったので、特にそこまで苦労をすることはなかった。

 しかしこの後もまだ学校の面談という大きな予定もある。後半戦に向けて、私は冷蔵庫の扉を開く。

「はい、ギアッチョ」
「……ん」

 何気なく差し出したミネラルウォーターを、ギアッチョは控えめに受け取る。

 それにしても、だ。先日引き取った少年、ギアッチョ。両親を失った傷がまだ癒えないのか、彼はこちらなど見向きもせず口を一直線に紡ぐばかり。

 そりゃそうよね。例え大人であっても、突然両親を失えば大きな喪失感に駆られるし、気持ちの整理も当然つかなくなるわ。大切な人がこの世を去る傷みは決して、生半可なものじゃない。それをギアッチョは、こんなに小さな体で、受け止めきれるわけがないのだ。
(正直、ちょっと気まずいけれど…)

 それでも、今私ができるせめてものことは、

「ねえギアッチョ。この後手続きが終わったらさ、一緒にバールで休憩しない?」

 責任をもって彼と向き合っていくことくらいだろう。ギアッチョが少しずつ気持ちの整理をして前を向けるように、なんて。言うだけなら簡単なんだけど。

 子供の面倒など一切見たことのない私が、これからは保護者になるのだ。どう育てればいいのかも曖昧で、正直何が正解かも分からない手探りで進む子育ての世界。自ら首を突っ込んだとはいえ、いきなり挑むには非常に難解なカードを引いてしまった。
 
 バールに寄ることで少しでも気分転換になればいいんだけど。そんな気持ちで尋ねた質問に対して、ギアッチョは少し唇を尖らせてジイッ私を見ている。

「……うん」

 か細い声だった。しかしそれをはっきり聞き取った私は、ニッと笑いギアッチョの手に余る空のコップを抜き取った。

「よし!じゃあ支度してさっさと済ませちゃうわよ!」
「……うん」
「って、あら?もう準備できてたのね!待ってて!私もすぐに済ませるわ!」

 必要な書類をまとめてバッグに詰め込み、時計に視線を移す。学校の面談の時間も着実に近づいている。

「よし!支度完了!行こうギアッチョ!」

 鞄を肩に下げ、鍵を片手にギアッチョへ向き直る。ギアッチョは口を開くことなく、私の後へと続く。すっかり太陽は真上に登っており、雲ひとつないペンキで塗り重ねたような青空の下で、私たちは手を繋いで歩みを進めた。

 小学校に着くまで、あと10分。今後ギアッチョの担当を務める先生と挨拶を交わすまで、あと15分。独り身で子どもを引き取る大変さを痛感するまであと30分…。

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