「全日制はもう定員が埋まってて、キャンセル待ちをしている状態なの」
「午前のみの授業で8時15分から休憩を挟み12時45分までの4時間半よ」
「学校の送り迎えは保護者の義務となってるわ。代行の場合は申請書の提出が必要だから必要なときは言ってちょうだい」
震えそうになる口元を押さえる。無茶は承知だが了承するしかない状況に、自分の考えが甘かったと猛省した。
ギアッチョが入学できるのは午前授業の枠のみで、午後は保護者が面倒を見る必要がある。
(午後から子育てとなると、仕事はどうしよう……)
女手一つで子育てと仕事の両立をするというのは、想像以上に大変なことなのだと思い知らされた。
私が小学生の頃はかの大都市ミラノに居を構えており、当時全日制にも問題なく入ることができた。共働きの家庭が多かった事もあり、全日制枠を充分導入することで配慮されていたのだろう。しかし、それは都市部だけの話で、下町では全日制の枠がかなり少ないそう。
現在ミラノから離れた町に住んでいるのは家族から離れて一人立ちしたいという動機のもとだ。下町ならではのフレンドリーで温かい人々、比較的安い物価、そんな場所でぬくぬくと穏やかに生活していた。特に日常で困ることのなかったこの町だが、子供が一人増えるだけでまさかこんな障害が立ちはだかろうとは思いもしなかった。
「送り迎えは何とかなると思うんですが……午後から預けてくれるような施設ってありませんか?」
「あまりないかと……親族の方にお願いしては?」
それができないから、私が引き取ったのだ。なんて言葉は胸に留めて、一度冷静に現状を整理しよう。
ギアッチョが編入できるのは午前授業のクラスのみで、送り迎えは必須。朝は通勤前に、昼はランチの時に学校へ赴けばいいので送り迎えは十分可能だ。問題はお迎えに行った後、仕事をしながらギアッチョの面倒も見れるのかというところ。打開策は……
(なんとか職場にギアッチョを預けることはできないかしら?)
そうすれば、なんとか仕事と子育ての両立は可能になる。今日中に職場に掛け合う必要がある。まあ、空室もあるし融通はいくらでも利く会社だ。事情を説明すればきっと分かってもらえるだろう。
「こちらで何とかします」
そうして担任との面談は幕を閉じた。
まっすぐ校門を抜け、踵を返しながらギアッチョを見やる。下を向いたままとぼとぼと歩いていて、口が開く兆しはない。
(これで良かったのかしら?)
職場で預けたとして、それはギアッチョのためになるんだろうか。せいぜい私の仕事の間にできる暇つぶしは、本やゲームなど限られている。もちろんそれくらい用意するわ。けど友達とサッカーしたり、公園で遊んだり、習い事へ行ったり、そうした本来の小学生が楽しむ放課後の自由を奪ってしまう形になる。保護者である私が同伴できない分、解決のしようがない。
私が葬式の場で強く誓った時は、とにかくあんなクソ共に親権だけは握らせてはならないとばかり考えていた。自分が子育てをするプランを後回しにしてでも引き取ろうと必死だった。つまり私は、ギアッチョのことも後回しにしていたのだ。私が引き取ってもギアッチョは、親の都合に付き合わせて窮屈な想いをさせることになる。
あの時は私が引き取るしかなかった。それは確かだ。でも私と暮らすためにギアッチョに強いる生活は、保護者としてどうかと問われれば、良いとは言えないものだろう。
(ギアッチョのことをちゃんと考えてなかったのは、私もだったのね)
とにかく、ギアッチョに謝らないと。
そう口を開くが、私より一歩早かったギアッチョの言葉に遮られた。
「ごめんなさい」
しかもそれは元来私が言うべきはずのもの。なぜギアッチョの口から出てくるのか分からず、私は頭を傾げる。
「えっと、どうしたの?」
歩みを進めながらも下を向いたまま変わらない表情は、どこかほの暗い。両親を亡くして落ち込むのは分かるが、謝る理由がよくわからない。できるだけ優しく問い掛ければ、ギアッチョは恐る恐る口を開く。
「迷惑かけて…ごめんなさい」
思わず立ち止まった。
ギアッチョの言葉に、私は開いた口が塞がらない。彼は自分がいることで迷惑をかけてしまったと判断し、謝罪したのだ。
情けない、なんて情けないのだろう。
これから暮らし始める子供に、私はなんてことを言わせてるんだ。
私は膝をつき、ギアッチョと同じ目線になり、両肩に手を置いた。
「そんなことない。ギアッチョは迷惑なんてかけてないわ」
「え」
「私はギアッチョと一緒にいれて幸せよ。それだけで十分」
「でも……」
「難しいことを考えるのは、大人の仕事よ。ちゃんとどうにかなるわ、だからギアッチョが気にしなくても大丈夫」
そう食い気味に言えば、ギアッチョは不安そうな顔で頷いた。
「それに、謝らないといけないのは私の方なの」
「…どうして?」
「私が仕事をしている間、ギアッチョにはきっと一人で寂しい思いをさせてしまうわ。本当に、ごめんなさい」
「あ……」
「でも!休日はその分たくさん遊びましょう?それに、有給も夏休みに合わせて多めにとるわ!だから、その、どうかあまり気を落とさないで」
そう言ってギアッチョの頭を撫でる。
(私、初日から保護者失格ね)
大人の事情で子供に謝られて、不安な気持ちにさせてしまうなんて。
私と過ごすからには些かの不自由でこの子を縛ることになってしまうだろう。子供がすくすくと育てる環境は、のびのびと笑顔でいられる環境は、とても限られているのだ。それは恵まれた家族にしか与えらない。そんなこと嫌と言うほど私も痛感してきたというのに。
私の話を一身に受けたギアッチョは、先ほどからぽっかりと口を開いたままだ。しかしさっきまでの暗い表情は姿を消している。
「じゃあ予定通り、バールに寄っていきましょう!あ、ほら!あそこにある緑の屋根が私の行きつけのバールなの」
私の指をさす方向には、木製の看板が出た老舗のバールがある。小さな緑のオーニングテントが目印だ。立ち上がって歩み近づけば、OPENと書かれた札が、錆びた金メッキのドアノブにぶら下がっている。
「さ、行きましょう!」
そう言って私は歯を見せて笑う。これ以上しんみりしていられない!大人の事情で子供に心配をかけるわけにはいかない。私は立ち上がり手を繋ぎなおした。
一方時間が止まったかのように私を見つめていたギアッチョは、動揺しながらも頷いて後に続く。
バールのドアノブを回し店内を覗けば、見知ったバリスタが見えるではないか。
「buon giorno、フランカさん」
「buon giorno、ナナーシ!最近来ないから心配したよ。元気そうで何よりだ!」
「私は元気よ、Grazie」
フランカさんはここのバールのバリスタであり、オーナーでもある。奥さんが早朝にパンを焼き、フランカさんが引き立ての芳しいエスプレッソを淹れてくれる。ギアッチョを引き取る前は毎朝出勤前に朝食も兼ねて寄っていたのだ。足を運べない日々が続いたためか、顔を合わせた途端とびきりの笑顔で握手を求められた。といっても、最後に来店したのは一週間前なんだけれど。
そんなフランカさんの視線の先には、私の隣に座る初めて会う子供の姿。
「この子はギアッチョ。訳あって先日私が引き取ったの」
「 Caspita!そうだったのか!初めましてギアッチョ君。私はフランカだ」
「…ギアッチョです」
とびきりの笑顔で手を差し出すフランカとは対照的に、真顔のまま応じるギアッチョ。二人の間に固い握手が交わされた。
黒板に書かれているメニューを見て、私はカフェ・ラッテを、ギアッチョはオレンジジュースを注文した。フランカさんは何十年も店内を見守っているかのように鎮座しているコーヒーミルを稼働し、準備を始める。
「ここのラッテはすごく美味しいの。けどカップッチーノが一番美味しいわ」
バールが好きで他の店を巡ったりもするが、やっぱりバールの生命線ともいえるカップッチーノは、この辺だと群を抜いてここが美味しい。
「詳しいことはよく分からないけれど、きっととてもフレッシュで良いラッテを使ってるのよ。もう少しギアッチョが大きくなったら、一緒にカップッチーノを飲もうね」
「…うん」
「ハハ、改めてそう言われるとくすぐったいな!さあ、ナナーシ一押しの選りすぐりラッテをどうぞ味わってくれ!」
いつの間にかこちらへ向き直るフランカさん。私たちの前に三度コトリと鳴らして注文の品を置いた。カフェ・ラッテに、オレンジジュースに、クッキー?
「子育ては大変だけど、楽しいもんだ。ギアッチョの新たな生活を応援してるよ」
そう言って、穏やかな笑顔を私に向ける。フランカさんの暖かい言葉が、私の中にすっと溶け込む。
彼の言う通りだ。大事なことは不自由な生活でも、後で楽しかったと思い返せるような、そんな日々を過ごすことにある。
(私も大変になるし、正直うまくやっていけるか不安もある。保護者としてはまだまだ不十分すぎる私だけど、ベストは尽くすわ)
「ええ、これからきっと楽しくなるわ!」
「きっとじゃない、絶対さ」
フランカさんは妻と二人の子供と共に暮らしている。もう二人とも働いているそうで、それまで家庭を支えてきた保護者ベテランのフランカさんが言うのだ。その言葉には説得力が大いにあった。
「私、さっきまでちょっと色々あって思いつめてたの。でもここに来て、とてもリラックスできたわ。いつもありがとね、フランカさん」
「なに、大したことないさ」
「ギアッチョも、ついてきてくれてありがとね」
「う、うん」
もうギアッチョの顔に暗い表情は抜けている。それを見て、私は内心安堵した。
ギアッチョとの生活はまだまだ始まったばかりだけれど、これから色々な出来事に追われるかもしれないけれど、きっと大丈夫。楽しくなるわ。
すっと解れていく心をカフェ・ラッテで潤せば、自然と身体にまで染み入るかのような味わいだった。
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