2011年12月某日。
 六畳一間の片隅で、女は祈りを捧げるように手を組んだ。まだ温まりきらない部屋は澄んだ冷たさを残し、彼女の欲望と混ざり合う。

「私を可愛くしてください」

 ポキッ。
 干からびた手はゆっくりと、しかし確かに。
 彼女の日常が崩れるような音をたてて、その指を折った。









 私はどうもハイキュー!の世界に転生したらしい。四歳の頃、寝ている間に前世の記憶が雪崩のように押し寄せてきたのだ。埋もれるほどの記憶を処理できずパニックになった私を、両親は夜驚症と判断したらしい。不審に思われるようなことはなく、前世の記憶を享受したまま今までのびのびと生きてきた。

 前世ではブラック企業で社蓄を続け、転職して、新たな会社でアラサーまで働いて、その後どう死んだのかイマイチ覚えてない。重要なのは今世の私がどう生きるかであり、前世の死因にはあまり興味がないので割愛させてもらう。

 子供ながらに勉強の重要性はよくよく分かっていたので、友達付き合いもほどほどに予習復習にも力を入れた。その甲斐あってか成績は上位を維持し、現在は稲荷崎高校で勉学に励んでいる。
 そう、稲荷崎高校で。学校名を初めて聞いた時、咄嗟に自分の頬を抓ったくらいには驚いた。だって、前世で好きだった漫画の中でも、一番好きな試合を見せた対戦校だったから。

 どのキャラクターも魅力的で、彼らが放つ数多の名言は心の中で大事に大事に眠っている。時に勇気をもらい、時に背中を押してくれるような名作。
 私は慌てて他校の名前も検索して、どうやら今世は「ハイキュー!」の世界にいるのだと、高校の進路を決める頃にようやく判明した。

 とはいえ私自身が彼らに直接関わることは、二年生に進級してもなおあまりなかった。認知されたいわけでもなければ、認知されるのが地雷というわけでもない。宮治くんや角名くんが同じクラスにいるけれど、必要な会話を交わす機会すら少ない状態だ。ファンとしては今くらいの距離がちょうど良いのかもしれない、そう思いながら今を生きている。
 稲荷崎高校のスローガンは「思い出なんかいらん」。彼らはただひたすらバレーボールに明け暮れる高校生なのだ。
 私が無闇に関わって邪魔したくない。でもそんな姿を遠目から眺めたいくらいには大好きな存在だったので、目立たない応援席の端っこに座って、お守りを握りながらひっそりと見守っていた。
 健全で最高に幸せな推し活を提供してくれて、本当にありがとうの気持ちでいっぱいだ。

「篠原さんはいつも俺らのこと、応援してくれててんなぁ」

 四月十八日、水曜日。
 窓の向こうではひとしぼりの春雨が風景から色を奪う。少し湿気を感じさせる、二年一組の教室でのことだ。友達とのんびり談笑を交える昼休みに、ふと横槍が入った。
 聞き慣れた声色に振り返り、思わず声を詰まらせた。

「ほんまありがとう」
 
 彼は誰だろう。
 微笑みながら私に感謝を伝える、宮侑くんの皮を被ったこの男は何者だ。

 彼はバレーをこよなく愛する反面、自分のプレーに誇りを持ち一所懸命に努力を重ねている。応援席の端っこに座る私になどまず見向きもしない。彼にとって重要なのは応援席ではなく、圧倒的にバレーボールだ。

 私が応援席にいる事など知り得ないし、彼にとってどうでもいい事のはず。たとえ知っていたとしても、彼の興味が向くことはないだろう。お礼を言うような性質タチじゃない。

 ここまで絶対に言わないであろう言葉を、認知されていないであろう人物から向けられると、人って動揺するんだなぁ。お礼を言われているはずなのに、ゾワゾワと鳥肌が立つような寒気が走る。

「あ、うん。これからも応援してるね」

 しかしこのまま無言というのも良くない。本心ではないだろうが、口先だけでもお礼を言われているのだ。
 無難に、当たり障りのない返事をこぼす。

「そんな篠原さんにちょっと頼みがあんねん」

 あ、絶対こっちの頼みが本題や。
 爽やかな笑みの裏側でどんな思惑があるのか、固唾を飲んで彼の頼みとやらに耳を傾けた。

「篠原さんが持っとるお守り、ちょっと貸してくれへん?」
「へ?」

 あまりの想定外に思わず素っ頓狂な声が出る。
 他人からお守りを要求される事なんてあるんだ。常に鞄にぶら下げているが、まあお守りだし貸すくらいいいかな。もし紛失されたとしても、また参拝へ行くきっかけをもらったと思えばいい。神社的にはそちらの方がありがたいだろう。
 まあ別にええけど。そう返事をこぼして通学カバンからお守りをはずす。はい、と手渡したお守りに一瞥して、彼は首を振った。

「交通安全やない。バレーボール描いてるやつ」
「ああ、そっち……え、本当に?」

 稲荷崎バレー部を応援する時に握りしめているお守りが、どうも彼には必要らしい。いや別にいいんだけど、貸す分にはなんら問題ないんだけど、「本当にこれなの?」と思わず聞き返す。というのもバレーボールの試合で愛用しているお守りは、フェルトで自作した一点物だ。それなりに手先が器用なので我ながら惚れ惚れとした出来ではあるが、それでも素人の手作り品の枠を出ない。
 そもそも、彼らの勝負を神頼みにしたくは無い。お守り風のあくまでオタクグッズだ。
 
 そんな疑問は彼も抱いたようで、財布の中から取り出したお守りを見た途端“ほんまにコレか?”と言いたげな視線を向けられる。
 いや、知らんがな。
 一方的に貸してと言っておきながらこの態度である。あまりに失礼すぎて逆に私が驚いてしまった。しかしハイキュー!の宮侑にこんな表情をさせているのだと思うと、いっそ清々しい。
 もうこれから心の中で彼のことは敬称略して呼ぼうと思う。

「これ中の鈴だけ渡しとくわ」

 中が空っぽよりはお守り感あるか、何て軽い気持ちで納めていた銀を渡された。まあキーホルダーと一緒についてるようなどこにでもある鈴だし、鈴が鳴るのを嫌がる人もいるだろう。彼はズボンのポケットにお守りを突っ込む。

「どうして私のお守り借りたいん?」

 至極真っ当な質問である。
 ていうかある? 他人のお守りが必要になるタイミング。いや、ないやろ。純粋に気になるのだ、そのお守りが彼にとってどのような需要をもたらすのか。

「それは……また話すわ」

 じゃ、と踵を返す彼の後ろ姿を眺めて、私ははてと首を傾げるのだった。

 
 

  * * *


 
 
 宮侑に私のお守りが渡って数日が経った。何に使ったか知らないが、あれから一切音沙汰は無い。
 なんだったんだろう、と小さな疑問を残しながら翌週を迎えた月曜日。休憩時間に次の授業の準備をする私の隣に、またも奴は現れた。
 
「篠原さん、マネージャーやってみいひん?」
「…………え? なんで?」

 宮侑のまたも飛躍した“頼み”に、私は一瞬思考を放棄した。
 稲荷崎高校バレー部の中で最も女子マネ勧誘に遠いキャラ、それが宮侑である。自分のサーブに黄色い声が飛び交えば「やかまし豚」と睨む男だ。彼はバレーの空間に異物が紛れたらキレる、そんな厄介オタクのような認識を持っていた。
 しかし、その分彼はバレーに対してストイックに一途な情熱を向け続けている。そんな彼が魅せるバレーを見るのも好きだったので、“人格ポンコツ”やら“人でなし”やら評価されててもそれはそれ、これはこれ。
 もちろんしっかり応援している。
 
 っていやいや話が逸れた。今そんな宮侑を庇っている場合じゃない。あの、本当に端っこで細々と応援できたらもうそれで満足なので、なんならお守りもそのままお譲りするので、事情も説明せず無理矢理話を進めるの本当にどうにかしてください……。

「マネージャーならすでにいるよね? 人手が足りないの?」
「まあおるにはおるねんけどな、とにかく今日一緒に来てや。とりあえず部活の様子とか見とこ」
「ちょ、ちょっと待って。さすがに急すぎ」
「あ、今日はなんか用事でもあった?」
「いや無いけど……」
「ほなよろしく」

 え、“よろしく”?
 まさか、あんなに急だと渋る私の気持ちには寄り添いもせず、頼みを引き受けた体で事を進めるのか。その身勝手さは確かに宮侑の片鱗を感じる。彼は確かに“人でなし”かもしれない。
 それにしてもここまで強引に誘うものだろうか。すでに一人マネージャーがいるし、万が一マネージャーを求めてるにしても、それは私より他に適任がいるだろう。少し応援席にいただけでバレー選手としてもマネージャーとしても経験値ゼロな私を、わざわざ採用する理由にはならない。
 あの宮侑がマネージャーの勧誘をしてきたのだ。何かのっぴきならない事情があるのかもしれない。前世でハイキュー!をこよなく愛し、現世で箱推ししている私にとってもそれは問題である。
 まあそんな事情など無いに越した事はないのだが。とりあえず彼の頼みに従ってみよう。


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