瞼、そっと目を閉じて
俺は一松。松野家の四男、松野一松。
なにを当たり前のことをと思うかもしれないけど、俺の中でこの確認は結構重要だったりする。
生きてるだけで認められて愛されるような人間と違って、俺は生きてるだけで他人の迷惑。生きてる価値のない燃えないゴミ。そんな俺にとってこの確認は自分の居場所を再確認するためのもので、今日も一応生きてるなって確認になっている。
「一松くん」
そんな俺の名前を呼ぶ人間が、最近1人増えた。
学生時代は誰も自分たちの見分けなんてつかなかったから、まとめて「松野」だし、実は名前を呼んでくれる女の子なんてトト子ちゃんくらいなものだった。それが、ここに来て「一松くん」である。
「……何」
腕の中の猫を撫でながら振り返ると、俺を呼んだナナ子って女の子が花のようにふわっと笑った。
「今日も、猫とおさんぽ?」
「まあね」
返事をしながら前に向き直って歩き出すと、ナナ子もあとからついてくる。ナナ子は最近猫つながりで知り合った近所の女の子だ。見た感じ、年下か同い年くらいで、大学生か大学院生かなと思うけど、確かめたことは無い。ただ、俺みたいなクズのニートと並んで歩いているべき人間ではない。
彼女はもっと、普通の人間だ。
話すこともないのでそのまま歩いていると、彼女は俺の隣に並んで猫を見た。
「猫、触ってもいい?」
「……ん」
「え、わ…」
彼女に猫を差し出すと、彼女は一瞬うろたえたけど、しっかりと抱き抱えることが出来るとふにゃりと笑った。
「あったかい。それに、小さくて、意外と軽い。かわいい…」
にゃあーと鳴く猫は、かわいいと褒められたことに対してお礼を言ってるみたいでもあった。
まるで赤ん坊を抱く母のような彼女の表情に一瞬見とれ、すぐになんだか恥ずかしくて目をそらした。
「しばらく抱えてて」
「あ、うん、ありがとう」
彼女がこちらを向いてありがとうと言ったのはわかったが、向き直る勇気がなかった。そもそも、なんでお礼を言うんだ。俺は猫を彼女に押し付けただけで。
にゃあにゃあと鳴く猫、それに対して律儀に返事をする彼女と、いつもの散歩道を歩いていく。
途中で新しい猫に出会うと、ニボシを振りまいた。大体の猫はこれを気に入って、次に出会った時あとからついてきてねだる。こうして僕は友達を増やしていく。
「一松くんには友達がいっぱいいるんだね」
路地裏までやってきて顔見知りの猫を抱えた時、彼女は言った。
「まあね。ま、アンタと違って人間の友達いないし全部猫だけど」
自嘲気味にハン、と笑うと、彼女は首をちょっとかしげて困ったように笑った。
「私には、猫の友達の方が羨ましい。だって私、猫は好きでよく可愛がるんだけど、全然なつかれないもん。だからたくさんの猫に囲まれてる一松くんのこと羨ましいな」
「……」
「人間のお友達だって、多くはないよ。私なんか、本当、人付き合い苦手だし……」
目線を伏せ、先程の俺と同じように自嘲的な口調で語る彼女。胸がざわついた。
……自分は一体彼女に何を言わせているんだ。
彼女は眩しくて、遠くて、雲の上の存在だ。こんなふうに自分を貶させちゃいけない。
「ちょっと、目ェ閉じて」
抱えていた猫を下ろして彼女に詰め寄る。
数秒とまどったあと、光にかざしたガラス玉みたいに輝くその瞳がゆっくりと隠れ、音がしそうなほど長いまつげが揺れた。
このキラキラした感情に、なんて名前を付けたらいいんだろう。
名前のまだないこの感情が、せめて伝わって欲しい。祈るように、僕はナナ子の瞼に唇を落とした。
(閉じた目の上へのキスは、憧憬のキス)
それをクソ松のクソみたいな話で知ったのは後日のことだった。
いろいろなキス5題 by 純粋シュガー
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