重ねられた唇から、透き通った丸い深紅の滴が、厚手のカーペットの上に滴り落ちた。右の手首と左腕を同時に掴まれて、身動ぎは封印されている。躊躇いがちに彼を見上げると、彼の瞳は少しでもわたしの瞳から逸らされることなく、わたしを射抜くように真っ向から見据えていた。星の無い夜のように一際昏い眼差しは、例えほんの数秒間であっても、わたしに呼吸という活動を忘れさせるのに充分な効力を放っていた。唇から零れる深紅の水滴を、彼の左手の指が丁寧な造作で掬いとる。代わりに解放されたわたしの右手は、それでも抵抗しようと彼を払い除けることをしなかった。寧ろ、自由であることの方が、反ってとても不自由なことのように思えるくらいだ。
「君の怜悧さは、君が今までの経験の中で身につけたものではなく、元来、君に備わっていたもののようだね」
 彼はそうして危殆なほど研ぎ澄まされた平静な表情かおをして嘯く。このような事態に陥っていてさえ、彼に対して懐疑的であると考えたり、極度の嫌悪感を抱いたり等という感情は起こらない。
「僕を拒絶しないんだね、君は」
 彼の手指は既にわたしの頬の端を撫で、ベッドの上での愛撫にも似たその行為が頭を支配した。しなやかな指先がわたしの瞼や唇の開きかけた狭間を辿り、食い入るようにわたしを捉えていた瞳はやがて口許へ移った。僅かな羞恥心が息吹き、透き通るように白い肌を熱く火照らせた。
「ここは僕の領域だ。どんな存在にも君を奪われず、君がその美しさ故に好奇の目に曝されることもなく、僕だけが君を見ていられる。それに、逆も言える。君の目も僕しか映せない」
 彫刻の際立つアンティークテーブルに置かれたワイングラスの深紅の液体を見遣ると、彼は再びそれを呷り口に含んだ。室内には壁掛け時計の秒針が刻む音だけが聞こえ、わたしの感覚はもう充分に鋭利になっていた。既に何度となくその液体は彼の喉元で嚥下されず、わたしの唇に流し込まれわたしの体内へ注がれている。その度、口付けられ彼の舌がわたしの口内を侵してくる。自分の唇から経由されたものは総て飲み干せ、そう彼に強制されているような気さえした。
「僕は君のことなら何でも知っているんだよ。朝、目が覚めると林檎を囓る癖や、君が真夜中の一時になると、その太腿の内側へと指を忍ばせて自分を慰めていることも」
 わたしはその言葉に宿った極めて親密な響きに思わず口を噤んで、ただ彼の瞳を見つめた。総てを見抜かれてしまいそうな危うい光を帯びて貫かれる。頭の奥がぼうっと熱を持ち始め、視線も心許なく焦点が合わない。彼はゆっくりとした造作で彼女の背中へ腕を回し、軽々と抱き抱えた。
「君は事故に遭った」
 彼は天蓋付きベッドの真っ新なシーツの上に彼女を横たえ、見下ろした。
「君は何故」
 白く伸びた無防備な脚に触れて、彼の言葉は止まった。彼女はそれと同時に爪先を強張らせ、籠もっていた熱い吐息を暗がりに幾つか漏らした。
「僕を忘れたんだ。一番愛している僕だけを」
 彼は押し止めていた揺らぎの片鱗を垣間見せた。彼女の頬に生温い滴がぽたぽたと音を立てて落下してくる。気が遠くなりそうな意識の中で、彼女は快楽の波が押し寄せるのを感じた。



愛を抱く



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