街へと続く一本の道筋を歩きながら、アメリアは唄を歌い始めた。よく響くソプラノの美しい声が、キースの鼓膜を心地良く擽る。彼は遠くの景色を見据えて、散っていく木の葉の残骸をブーツの爪先で均した。
「……聴いたことのない唄だ」
「本当?」
 アメリアは、心底不思議そうにキースを見上げた。キースの柔らかな髪は、清々しい風に吹かれ弄ばれていた。
「流行っているのかな?」
「ええ、知らない子はいないくらい」
「……そういうのには、昔からどうも疎くてね」
 深緑のハットを目深に被って、キースは苦笑した。ゆったりと進む二つの足取りが、アメリアの心を穏やかにさせる。淡い生成のドレスを揺らし、アメリアは呟いた。
「私のことを、嫌いだって言う娘がいるの……彼女は、近所に住んでいる娘で」
 軽やかで愛らしいステップを踏みながら、アメリアは気丈に呟いた。キースは彼女の言葉に耳を傾けながら、慎重にアメリアの象牙色の髪を眺めた。幼い横顔に滲んだ淋しさを――ごく僅かだが、感じ取っていた。
「何かあったのかい?」
「……彼女、路地裏にいるニナを虐めたの」
「ニナ――?」
「ニナは、野良犬の名前よ」
 アメリアは腕を広げて見せると、ニナの身体の大きさを例えた。恐らくまだ子犬なのだろう。キースは頷き、話の続きを待った。
「彼女はニナに……石を投げたの。ニナは、きっと生まれつき後ろ脚が悪くて、上手く歩けないの。彼女は、そんなニナを馬鹿にしてた。でも、ニナは抵抗することも出来なかったの。ニナは鳴いてた。たくさん、鳴いてた。だから、私は……」
 言葉にするのを躊躇う姿勢は、彼女の痛ましい表情から安易に読み取れた。アメリアが普段、ニナを充分に可愛がっていることも。
「それは――とても、酷いことだ」
 キースは眉根を寄せ、厳かな口調で言った。これまでずっと優しかった彼の声色が一変したので、アメリアは少し狼狽した。
「私、すぐに止めたの。彼女に、そんな酷いことはしないでって。でも、わかってくれなかった……ニナはあんなに怯えていたのに」
 刻み込まれた傷痕は深い。アメリアの澄んだ円らな瞳が、当時の耐え難い光景とやり取りを思い出し、暗く重たい光を浮かべた。キースはアメリアの歩みが遅くなるのを感じて、再び彼女の歩幅に合わせた。
「君がしたことは間違いじゃない、寧ろ、正しいことだ。それは正しくて、とても立派な行動だよ、アメリア――君が彼女を止めなければ、ニナはもっと傷ついていただろう?」
「うん……私、間違ってない?」
「もちろん。もちろんだよ、アメリア」
 キースはアメリアの腕を引き、徐にその場に屈み込んだ。目線を合わせ、彼女の滑らかな薔薇色の頬に触れる。まだ純真であどけないアメリアは、恥じらうことなくキースの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「その娘は、可哀想な子だよ。君とは違って、何かを傷つけてしまうことを恐れない。大人になって誰かを傷つけることは、本来辛いことだ。君はそれをわかってる」
「キースも、誰か傷つけたことがある?」
「あるよ」
 彼は、全く予想外なことに即答した。アメリアは彼の瞳を見つめ、先を促す。キースは薄い唇を開きかけ、彼女に向かって微笑んだ。吸い込まれそうに透き通った瞳は、アメリアを見て瞬きすらしなかった。
「私は、ある女性を酷く傷つけた。私を愛していると、打ち明けてくれた女性を。彼女は性格も、家柄も良く、何より愛嬌があった――だが、私は彼女を愛することが出来なかった。正式な婚約を決めても、その後も……彼女は苦しんでいた。けれど、私もそうだったんだ。彼女は私に初めて会ったとき、あの屋敷の庭園を見て、こう言ったんだ。『睡蓮が咲いているなんて、味気ない所』だと――彼女は常に……華やかな物を、好んでいた。様々なピアノが弾ける使用人、贅を尽くした装飾品や絵画や、人脈……私は、彼女とは違った。何を必要とするのか、何に価値を見出すのかも」
 彼の目線には悲哀の色が揺らぎ、奥底に犇めいていた。しかしそれは、今生まれたばかりの物ではなく、当時から時を過ぎた何年もの間も絶えず眠っていただけだった。アメリアは彼の長い睫毛を見つめ、指先で優しく触れた。キースは片眉を上げた。
「キース、泣かないの?」
「……どうしてだい、アメリア」
「悲しいとき、人は泣くから。泣かないと、辛くなるから。ママが言ってた」
「君のママは何でも知っているね」
 キースは笑みを零して、アメリアの頭を撫でた。時折吹く風に煽られ、彼女の髪は眩い輝きに包まれた。悪戯に葉が絡まった髪からその葉を取り除いた後、キースは身を折って立ち上がった。その足取りは以前よりも軽く、悠然としている。アメリアは赤い唇を結び、楽しそうに笑った。
「私に良い提案があるわ、キース」
「どんなものかな?」
「私が大きくなったら、あなたと結婚出来ると思うわ。ねぇ……これは良いお話?」
「ああ、この上なく。君は天才だね」
 キースはそう言って、小さく声を上げて笑った。前方に広がる情景が、少しずつ詳細に変化していく。煉瓦色の建造物の集まりが、塊の様に横へ連なっている。
 キースの目がふいに空を見上げ、太陽の近くを掠めた。空は雲一つ浮かばず、晴れ渡っていた。
「アメリア、なぜここまで来たんだ」
「なぜって?」
「お使いなんて、本当は無いんだろう?」
 アメリアは答えなかった。白ウサギのぬいぐるみを胸元まで手繰り込み、固く沈黙を守っている。キースは足下を確認し、自然な調子を装って口を開いた。
「たった一人で出掛けてしまうのは良くない――君はまだ、自分で自分の身を守れないし、君が黙って家を出れば、君のご家族は心配して心を痛めてしまう」
「……どうしてわかったの?」
「君のママは、君を一人で外出させるような女性じゃないと感じたんだ」
「そうよ」
 微かに頷いたアメリアは、内心では自分の身勝手を後悔している様子だった。しかし、そんな感情の陥落を見抜かれないよう、努力をしているのだ。キースは彼女を穏やかに見守りながら、返事が来るのを待っていた。
「ママは私を一人にはしないわ。必ず――でも、私は一人になりたかったの」
「なぜ?」
「キースとこんな風に出会って、歩いておしゃべりをして、外の世界を知るため」
「アメリア」
「あなたの言いたいことはわかるわ」
 アメリアは、土埃に汚れたドレスの裾を見ながら、不機嫌を隠さずに言った。
「私はお家を出るべきじゃなかった。ママやパパが心配するってわかっていたのに。でも……私はどうしても、一人になりたかったの。とても、我慢が出来なかったの」
「何があったんだ」
「ママが私を……婚約、させたの」
 陽の光が徐々に橙に染まっていく中、アメリアの言葉は衝撃的だった。アメリアの美しい薔薇色の頬に、一筋の涙が伝う。彼はそれを見逃さなかった。キースは深緑色のハットを外し、両手に掴み持った。彼女の胸中――その感覚を、彼は誰より深く理解していた。
「君は、まだ子供だ……」
「彼は私より、ずっと裕福なの。私を気に入っているみたい。でも、好きじゃないわ…自分勝手で、傲慢で……とても合わないの」
「それなら、彼と婚約する必要は無い」
「そんなに簡単じゃないでしょ?」
「ちゃんと伝えなければダメだ。彼とは結婚出来ないのだと。そうしなければ君は――一生後悔するよ、アメリア。もしママに言えなければ、パパにそう言うんだ」
「わかってくれないわ」
「愛する娘を不幸にする選択を、どうして無理やり選ばせると思う?」
 キースはそう言って、深緑のハットをアメリアの象牙色の頭に被せた。突然酷く傾いた視界に、アメリアは思わず、ニッコリと微笑んでいた。彼はアメリアに釣られたように唇を緩め、独り言に近い声で呟いた。
「その笑顔だよ、アメリア」
 アメリアは首を傾げて、キースを見上げようとした。しかし、大き過ぎるハットを被っていては、彼の表情を窺い知ることは不可能だった。空の色の鮮明さを映し取り、キースの瞳は細められ、ちいさく揺れていた。
「君は睡蓮の様だ――どこにでも根を張ることはなく、すぐに消えてしまう。だが、花弁が開く瞬間は、息を呑むほど美しい」
「私……消えたりしないわ」
「ああ、そうだね。君は・・ここに居る」
 柔らかな声色が耳に届く。キースは魅惑的な笑みを浮かべ、アメリアの肩にそっと手を添えた。可笑しいほど傾いたハットの下で、硝子玉に似た瞳と搗ち合った。
「この先に、君の家がある」
「本当に――?」
「本当だ。君はお家に帰れるよ」
 アメリアは、少し重たいハットをずらして前方を捉えた。そこには見慣れた街道と、そこを歩く夫人や子供達が居た。アメリアはその波の中に一人佇む、自分の母親の姿を見た。
「ママがいるわ!」
「行っておいで、アメリア」
 キースに背中を押され、アメリアは困惑した。両足が前へ進もうとしないのだ。
「……お別れをしたくないの」
「――大丈夫だ。ママを呼んで」
 キースはアメリアに被せたハットを直し、黒のリボンでしっかりと結び付けた。今のアメリアの年ではサイズが合わないが、深緑のハットはとても似合っていた。キースは端麗な笑顔を浮かべ、アメリアに言った。
「君に会えて幸運だったよ。アメリア」
「本当に行ってしまうの……?」
「行くのは、君の方だ。さあ、行って」
「待って――」
 アメリアは背伸びをして、キースのジレを掴んだ。だが、とても腕が届きそうな気配はない。キースは見兼ねて、微笑しながら彼女の足下に跪いた。その途端、アメリアは目を閉じ、キースの唇に唇を押し当てた。キースが驚きに目を見開いていると、アメリアはくるりと背を向いて、母親を呼んだ。
「ママ!」
「アメリア――?」
 アメリアの母親は、娘の姿を見つけて夢中で駆け出した。涙を浮かべた彼女の頬には、真新しい涙の跡が見受けられた。アメリアは、あっと言う間に彼女に抱き締められた。
「ママ、ごめんなさい……」
「アメリア、ああ、アメリア――!ママが悪かったわ。あなたの気持ちも考えずに婚約を決めてしまうなんて――ママが愚かだったわ。アメリア、どうか許してちょうだい……」
「ママ――」
「とても心配したわ。パパもご近所さんも、手分けしてあなたを探していたのよ……アメリア、あなたが無事で本当に安心したわ。あら、そのハットはどうしたの――?」
「さっき私の傍にいた人、見たでしょう?あの方がくれたの。ほら、見て」
 アメリアはそう言って、後ろを振り返った。しかし、そこには歩いて来た道が広がるだけで、キースの姿はどこにも無かった。
「アメリア、そんな人は居なかったわ――ママの目が昔から良いことは知っているでしょう?あなたが私を呼んだ時、あなたは確かに一人だったわ」
「でも、本当にキースがくれたのよ!」
「キース……?」
 アメリアの母親は、突然驚愕して両手で口元を覆った。アメリアにはなぜそんな反応を示すのか、その理由がわからなかった。アメリアの母は、幾度か首を横に振った。
「キース・フェルナンドのことを、あなたが知るはずないわ。誰がそんな話を?」
「キースが私を連れ戻してくれたの」
「まさか――そんなはず、ないわ」
 母親はアメリアを抱き締め、囁くように言った。アメリアは腕を回さなかった。
「フェルナンド侯爵家のキース様は、もう何年も前に亡くなっているのよ……アメリアが今日会った人は、きっと別人だわ」
 アメリアの母親はそう言って、愛らしい娘の顔を見つめた。アメリアは静かに呟いた。
「ママ、あの人は睡蓮の花が好きだと言っていたわ。私が、似ているとも。でも私は、あの人こそ睡蓮の花のようだと思ったわ。とても美しく笑うのに――儚いの」
「……アメリア……」
 母親はそれきり口を噤み、一言も口を利かなくなった。しかし、アメリアはニッコリと微笑み、母親の腕を引いて、賑わう街中の人並みへと紛れ込んでいった。



睡蓮の咲く庭園で - 後編 -



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