凪いだ水面に足を止め、少女が振り返った。木々に留まっていた鳥たちが、一斉に羽ばたいていく羽音がした。少女は空を見上げて、去りゆく鳥の群れを追った。皆、何処を目指して飛んでいってしまったのだろう?少女は道に迷って、迷路のように伸びた雑木林の中を歩き続けていた。やがて、少女が辿り着いて目にしたものは、華やかな庭園と湖のある光景だった。その奥に堂々聳え立っていたのは、荘厳な情緒ある屋敷だ。高級感のある、立派な外観の――少女は少しだけ恐れていた。屋敷の住人達にもし見つかったら、良いことをしていたとは決して思われない。
 少女は咄嗟に湖から遠ざかって、木の幹に座らせていた白ウサギのぬいぐるみを抱え上げた。ぬいぐるみを大事そうに抱き締めて、木々の茂みの奥まで入ろうとした。しかし、先へは進めなかった――何者かに腕を引っ張られ、少女は僅かに前のめりになっただけだった。
「お嬢さん、迷子かな?」
 訊ねる声はとても優しかった。予想していた怒号でも、叱咤でもない。少女は顔を上げて、その人の全身をゆっくりと眺めた。軽やかな佇まいで正装した男は、驚くほどに端正な顔立ちをしていた。深緑のハットからはみ出した、明るいブラウンの髪色が鮮やかで、その毛先に触れてみたいという衝動さえ生まれる。少女はひととき言葉を失ったまま、男の顔を見上げていた。
「お名前は、何というのかな?」
「――アメリア」
「アメリア……私はキースだ」
 キース――キースという名の男は、アメリアの名を呟き優しい微笑みを浮かべた。まるで、二人の傍にある湖面に咲き乱れた、白い睡蓮の花の様に美しい笑みだった。
「それでは質問するよ、アメリア。君は、どうしてここまで来たんだい?」
「ママに、おつかいを頼まれたから」
「困ったね―街は反対方向だ」
 キースの何気ない一言は、アメリアの胸を落胆させた。彼女は既に歩き疲れ、昼間の温かな陽射しに眠気を誘われていた。キースは少し考え込んで、口元に指を添えてアメリアを見た。風が吹き、アメリアの長い象牙色の髪の毛が、柔らかく宙を舞った。
「少し歩こうか……アメリア」
「どこまで?」
「街まで。私と一緒に行くかい?」
 キースの返事は、願ってもいない提案だった。アメリアは戸惑っていた。家族や友達以外の、全く知らない人に連れられてどこかへ行くのは悪いことだ。ママがそう言っていた……しかし、キースは悪者には見えなかった。彼の風貌から滲み出る雰囲気は、どこか曖昧で、包容力に溢れていた。
「ありがとう」
 アメリアはお礼を言って、キースの身体へ背伸びした。キースが眉を上げてその場に屈み込むと、アメリアの赤い唇が、キースの額へそっと触れた。小さな両手に顔を挟まれたキースは、微笑みながら訊ねた。
「――感謝の仕方はママに教わった?」
「いいえ」
 キースの興味本位の問いかけに、アメリアは首を横に振って、それを否定した。
「これは、私からの感謝の贈りもの」
「そうか」
 キースは微笑みながら、アメリアの華奢な手に触れた。幼い彼女が狼狽する様子を眺め、キースはもう一度、優しく微笑んでみせた。硝子玉の様にはっきりと澄んだ両目が、キースの顔をじっと見つめた。アメリアが何を考え、どんな風にするべきなのかと悩んでいるのは一目瞭然だった。しかし、キースは笑っていた。鮮やかなブラウンの髪を靡かせ、その奥の瞳は眩しそうに、微かに細められていた。アメリアは白ウサギを抱き上げて、赤い唇を開きかけた。
「あなたはこの、お屋敷の人ね?」
「そうだよ、アメリア」
「ここを……離れてもいいの?」
 歩幅を小さく、ゆっくりと歩きながら庭園を抜けていく。所々差し掛かる木漏れ日を感じながら、キースは穏やかに答えた。
「私がいなくても、守れる者達はいるんだ……本当のことを言えば、私は無類の散歩好きでね――こういった機会があることは、とても貴重で喜ばしいことなんだよ」
「それ、本当?」
「もちろん。君に会えて、私は幸運だ」
 キースの言葉は、アメリアの不安を砕いた。聡明な眼差しが真っ直ぐにアメリアへと降り注ぎ、彼女の繊細で未成熟な心ごと、優しく包み込もうとしていた。木漏れ日を惜しみなく浴びた象牙色の髪の毛は、驚く程に美しく、艶やかに見えた。
「君のような少女が訪れるのは、珍しい――」
 アメリアはキースを見上げた。深緑色のハットの下で、優しい瞳と目が合った――彼女の不思議そうな表情は、生まれ持った純真さを剥き出しにして、キースを捉えた。
「キース?」
「……いいや、アメリア。何でもない」
 キースは再び両目を細め、アメリアに向かい微笑みかけた。その美しい表情の節は、どこか物淋しく、一際――魅力的だった。



睡蓮の咲く庭園で - 前編 -



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