
※いじめ表現、ヤンデレ、鬱展開注意
いつからこうなってしまったのだろう。
前に進みたいのに。
蔦に絡まれたように、まるで蜘蛛の糸に絡まれたように、わたしは気がついたら進めなくなっていた。
いつからなのだろう。
周りの視線が怖くなったのは。
いつからなのだろう。
与えられる言葉を全て拒絶するようになったのは。
いつからなのだろう。
氷の上にいることが、心底怖くなってしまったのは。
・
・
・
『ビッチ女苗字名前!恥さらし』
そう裏に書かれたチラシが貼ってあったのは、いつも通りわたしの家の玄関口。
それを何も言わずに剥がして紙飛行機にして飛ばすのが、もはや最近のわたしの日課の一つとなっていた。
ロシアの高い空に飛んでいくそれは、まるで希望をのせた立派なものに見えてしまうのだから、人間の目なんてきっと腐っているのだろう。
(いや、腐ってるのはわたしのほうだったっけ)
空の彼方にいつしか消えた飛行機をわたしは意味もなく最後まで見送ると、いつものように家を出た。
いつも肩にかけているボストンバッグには、相変わらず着替えやら替えの練習着やらスケート靴やら、そんなものが入っているせいで重たく感じる。
―――わたしのロッカーがホームリンクからなくなっていたのは、最近のことだ。
「見てよ、あの子じゃなかったのかしら……」
「え、それって最近ニュースになっていた?」
「まぁ……かわいそうなこと」
道を歩けば嫌でも聞こえる話し声。
それでもわたしは歩き続ける。
聞いているだけ、無駄だ。
雑音を消すかのようにヘッドフォンを装着する。
そんなわたしの態度に嫌悪感を抱いたのか、一人のおばさんが「やだ、態度が悪いのね」とわたしを睨んでくる。
うるさい。うるさい。うるさい。
あぁ、周りの連中なんてバカばっかりだ。
何に踊らされているんだよ、自分で物事の本質を捉えようとする努力もしないのかよ。
心の中で思っていたことは、きっと表情にも現れてしまうのだろう。
「なんだよその顔。オメー自分がしたこと忘れたの?」
気がついたら目の前には数人の若い女が立っていた。
この人たちには見覚えがある。
わたしの家の玄関口に飽きもせずに張り紙を張り付けて、それで大声で人の悪口を言うような連中だ。
「別に……」そう言いかけたわたしだったが、その言葉は最後まで続かなかった。
「なんだよ反抗するのかよ」
「アンタまじ生意気だから」
彼女らのまるでゴミを見るような視線を感じながら、わたしはじわりじわりと広がる衣服への違和感を感じる。
「あ、ごめーん。手滑っちゃった」
まるで反省していないかのような声色。
彼女の持っていたドリンクが、わたしの服に全てかかっていたのだ。
ニヤニヤとしている彼女たちを見ながら、わたしは内心でため息をつく。
してやったり、とか思っているのだろうか。
相変わらずバカばっかりだ。
何度目かも分からないその考えに、結局落ち着いてしまう。
そのままなにも言わず、彼女たちの隣を通りすぎようとしたとき。
「あのさー、とにかくさ、さっさとその荷物の中、捨てたら?」
別れ際に言われたその一言。
………あぁ、うるさいなぁ。ほんとうるさい。
「はっ、それで毎日毎日バカでけー荷物持ち歩いてるのか。ウケるな」
まだ誰もいない早朝のリンク。
靴を履いているわたしの背中に鼻で笑うように声をかけてきたのは、同じリンクメイトのユーリ・プリセツキー。
「………うっさいなぁ」
ケラケラとまるで他人事のように笑うその妖精を一度だけ睨みつけ、わたしはリンクへと向かう。
まだ着替えも済ませていないくせに、わたしの後ろに何故か着いてくるソイツに、わたしはひっそりとため息をついた。
「お前びしょ濡れになって来てたのってソイツらにやられたんだな」
「そうだよ」
「女ってこえーな」
「そうだよ」
「どんぐらいの頻度で張り紙って張られてるんだよ」
「…毎日かな」
「うわ、なんか逆にすげーわ」
わたしの話を、まるで可笑しそうに彼は聞いてくる。
………誰のせいだと思ってるんだよ。
そう思ったけれど、他人のせいにすることもできない。
わたしはユーリを適当にあしらう。
『ロシアの妖精、氷上の魔女と禁断の恋愛か?!』
そのような見出しの記事が出たのは、今からおよそ1ヶ月ほど前。
リンクから家に帰る道、たまたまユーリと同じ時間帯になったその日の写真。
隣にいるのかって、ただ単に帰り道を一緒に歩いただけ。
何の問題も起こしていない。そもそもわたしは年下のユーリに対してどうしたいという思いも持っていないはずなのだ。
それなのにその記事の二人は、まるでとてもなかむつまじい恋人かのように改竄されていた。
『練習後の逢瀬』だとか、『氷上とは違った雰囲気を纏う二人』だとか、わたしが一番理解できない言葉。
しかし、世間はそれを真実だと捉え、いつの間にかその真実さえも歪められ始めた。
『妖精を暗闇に引きずり込む堕天使』
当時、いや今もだが、ユーリ・プリセツキーはロシアの英雄だ。
シニアのグランプリファイナルでいきなり金メダルをとり、そのあとのチャンピオンシップでもめざましい成績を残している彼。
それに比べてわたしなんて、精々地方の大会に少し出ているレベルの選手。
彼の名誉を傷つけないため……世間がどのようにわたしを扱うかなんて考えるだけ容易い。
他のリンクメイトもわたしを疎ましく思ったのか、気がついたらわたしのロッカーは消えていて。
そして多数いる彼の熱狂的ファン――もとい、ユーリエンジェル。
彼女たちも、自分達の中にいるユーリ・プリセツキーのイメージを崩したくないのだろう。
わたしを真っ先に攻撃してきたのも、彼女たち。ついでに朝からわたしにドリンクをぶっかけたのも彼女たち。
つまりわたしがこんな目に遭っているのはコイツにも原因があるのだ。
……文句は言いたいけれど、それさえも何だか憚れてしまう。
(違う。悪いのは……そうだよね、)
毎日に及ぶ数々の罵倒。
大勢の人からの冷たい視線。
居場所のないホームリンク。
それらは徐々に、わたしの心を蝕んでいった。
わたしが悪いのだ。
わたしはきっと、すでに腐ってしまっているんだから。
「でもさ、」
リンクに片足を入れて、さぁ今から滑ろうと思った矢先。
ユーリの声が、響く。
「何でお前、まだ滑ろうとしてんの?」
『さっさとその荷物の中、捨てたら?』
先程言われたその言葉を思い出し、わたしはそこから動けなくなった。
目の前には白色の氷が広がっている。
まるでそこは、わたしを吸い込ませるような、でもそれでも立ち入らせないような、何とも言えないところに見えた。
「お前、怖いんだろ?足震えてんだよ」
「………」
「怖いならやめちまえばいーじゃん。何でこんな早朝にわざわざ一人で滑ってるんだよ」
「………さい」
「そんなばかでけーモン毎日持ち歩いてまでしてさ、」
「うるさい!!」
わたしの怒号がリンク内に響いた。
……まるで、絞り出すかのように出したその声は、空しく反響する。
本当は、本当はわたしだってスケートなんてもうやりたくなかった。
あんな惨めな思いもして、何かを表現することなんて、到底できないと思った。
リンクメイトからは無視されて疎まれる毎日。
今のわたしの精神では、到底やっていけるものでもなかった。
「あんたに何が分かるのよ……っ」
それでも、離れられなかった。
わざわざわたしを批判する人たちが誰もいない早朝に来て、それで僅かな時間だけでも毎日欠かさずに滑った。
滑りながら、涙が溢れることもあった。
何で、わたしがこんな思いをしないとダメなんだ。
何で、何で、何で――――。
スケートが大っ嫌いになった。
本当は張り紙も、周りからの非難も、いやがらせも、全てが心に突き刺さっていた。
それでも平然な顔をして、このリンクに来た。
スケートから、離れられなかった。
怖い。
この白色が、わたしをいつか飲み込んでどこかに引きずり落としてしまいそうだから。
怖い。
いつからか前に進みたいのに、わたしは一歩も進めなくなっていたから。
ここから一刻も早く立ち去りたい。
少しでも長く滑っていたい。
相反する2つの思いに、わたしはいつしかぐちゃぐちゃな心を抱えるようになった。
苦しい。だけど、滑る。
涙が止まらなくなる。だけど、滑る。
死にたくなる。だけど、滑る。
やめたいと思う。だけど、滑る。
「わたしかって、スケートなんて……っ」
"大嫌い"
そう言おうと思ったのに、喉はへばりついてしまい、その言葉を言うことはできなかった。
ユーリのエメラルドグリーンが、静かにわたしを見据えていた。
どこか、凍てつくような視線だった。
「……大体、あんた何でいっつもこんな早朝に来るの」
「練習だろ」
「嘘つけ。一度もそんなところ見たことない」
「どっかの孤独な誰かさんの話し相手になろうとしてんだよ」
「いらないから。もう出てって、邪魔」
「出てくけどさ……最後に一言だけ言わせろよ」
「何?」と言おうとした瞬間、わたしに顔をグイッと近づけてくるユーリ。
思わず息を止めてしまいそうなほど近づいたその顔から、思わず目線が離せなくなる。
ソイツの瞳は雄弁に語っていた。
わたしが、わたしは、まるで―――。
「………惨めだな、お前」
次の瞬間には、わたしの右手は彼の左手に捕まれていた。
グーの形のままのわたしの右手を、彼は力を入れて掴んでくる。
彼を、殴ろうとしたその手を。
「……な、んでっ」
それと同時に、信じられないほどわたしの瞳は熱くなった。
周りのものが全て滲み、彼の姿も見失ってしまうほど。
ボロボロ、ボロボロと、わたしは。
「なんでっ、あんたにそんなこと言われないといけないのよ!!あんたに何が分かるの……っ、あんたに、何が!!!」
胸が痛い。痛い。
張り裂けそうな痛みは、わたしをどんどんと壊していく。
「わたしだって、そんなの分かってる!!!でも、でも、滑らないと……っ」
頭がぐわんぐわんと回る。
酸素が足りなくなる。
震える足元。乱れる呼吸。
わたしのスケートは壊された。
なのに、この妖精のスケートはこれからも生き続ける。
その不条理が、たまらなく悔しかった。
わたしは、わたしは、スケートが――――。
「……好きだったんだろ」
瞬間、呼吸が止まった。
わたしはボロボロと溢れる涙を拭うこともなく、静かに彼を見上げた。
彼のエメラルドグリーンに映るわたしの姿。
泣き顔がなんとも不細工で、みじめで、情けないわたしの姿だ。
「………ぁあ、ぁっああ!!」
惨めだとは分かっている。
それでも、嗚咽を溢さずにはいられなかった。
彼に右手は掴まれたまま、わたしはその場に座り込む。
―――頭の中は、絶望でいっぱいだった。
着氷する瞬間が好きだった。
何かを演じるのが好きだった。
歓声が好きだった。
伸びていく成績を辿るのが好きだった。
……スケートが、大好きだった。
だけど、全てはもう崩されてしまった。
わたしの大好きなリンクの白色を、わたしは心底恐れてしまうのだ。
「……ねえユーリ、わたし、どうすればいいの……っ」
「……」
「ここが好きなの…っ、生き甲斐だったの…っ」
「……」
「でももう、わたしを見てくれる人は誰もいない。わたしのスケートを見てくれる人は、もう、誰も…………。わたしは生きていない……っ」
こぼれ落ちる涙に、溺れていくように。
まるで呼吸もできない。
ここを失ったら、生きられないのだ。
わたしは、このまま「死んでいく」んだ―――。
「………名前、お前は、スケートが好き『だった』んだ。なら、あとは早い話だろ」
ユーリが静かにしゃがむ。
わたしの瞳をしっかりと見つめたまま、彼は、まるで何かの魔法使いのように、その言葉を―――――。
「捨てろ」
その言葉と同時に、世界の全てから色が消えた。
静かに離される右手。
後ろに倒れていくわたしの体。
………ダメだよユーリ。
わたし、スケートを捨てたら死んじゃうんだよ。
もう既に腐っているけど、それさえもなくなっちゃうんだよ。
何も、なくなっちゃうんだよ。
誰も、見なくなっちゃうんだよ。
……倒れていくわたしはもう死んでいるから、そんなわたしなんて、誰も、誰も――――――。
(………見捨てないで)
懇願するようにもう一度突き上げた手。
絶望に堕ちていくわたしのその手を。
「生き甲斐なんて、そんなの、」
力強く掴む手が、あった。
エメラルドグリーンの瞳は、わたしの世界に輝きをもたらす。
倒れていくわたしを引っ張りあげるように。
そのままわたしの体は、彼の華奢な腕に包まれていた。
「俺でいいだろ」
背中に回る腕は、まるでわたしがここに存在しているということを教えてくれるようだった。
わたしを拒絶するのではなく、救ってくれる場所。
ひとりぼっちにはしない場所。
リンクではなく、『ユーリ・プリセツキー』という居場所。
―――その居場所を、わたしは懇願した。
すがり付くように、離さないでというように、わたしもその背中を掻き抱いた。
「………名前、いいか、もうスケートなんて捨てろ。そんで、俺のところに、」
ユーリの匂いでいっぱいになる身体。
もう、後ろの白色への未練は、なくなっていた。
(ようやく、だ)
(ようやく、俺だけの物になった)
酸素がなかったら息なんてできないのよ
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