ごめん、それでも、離れたくない



きっかけは、本当に小さなことだった。

「え、勝生さんってお料理もできるんですか?」
「あ、いや………うん、カツ丼くらいだけどね。小さい頃、親が作っているのよく隣で見ていたから」
「すごいなぁ……。わたし、揚げ物が苦手で。後処理が大変なんで…」
「あ、それならね……」

ユーリはイラついていた。
まるで猫が毛をシャーと逆立てているような目付きをしながら、二人を見ていた。







――ゆ〜とぴあかつきに名前とユーリが泊まるようになってからしばらく経った、ある夜のことだった。

「勇利〜、ごめんね、この後町内会があるけん、洗い物ばしといてくれん?お願いね〜」

いつものように夜ご飯を食べたあと、台所で女将さんが申し訳なさそうに手を合わせながら勇利にこう言ったのを、名前は聞き逃さなかった。
「うん、いいけど…」
慌ただしく去っていく女将さんを見送った勇利の横に、名前は立った。

「勝生さん、わたし手伝います」
「え、名前ちゃん、いいよいいよ、お客さんなんだから、座っていなよ」
「いえ、せっかくこんな美味しいもの頂いているんだから、片付けくらいさせてください!」
「…ありがとう」

そう言う名前の優しさを、勇利は無下にはできなかった。
元より洗い物を普段そんなにしたことのない自分だ。
隣に彼女がいてくれたほうが、早く終わるだろう。
そう思って二人はたくさんある洗い物を片付けていくことになったのだ。

名前は何か自分にできることをしたかっただけ。
勇利はたくさんある洗い物を早く片付けたかっただけ。

そこにあるのは、それだけだった。

「は?……アイツら何してんだよ」

しかし、ユーリだけは違った。
カツ丼を食べ終えて、少しだけ食後の仮眠を取った後、隣に名前がいなかったので探しに行ったら、台所で並んで作業をしている二人を見つけたのだった。

……そして、冒頭に戻る。

目の前で広げられている話は、自分には全く分からない言葉で成されていた。多分、日本語。
笑顔の勇利と名前。
でも、自分にはその内容がさっぱり分からない。
それに何だか無性に腹が立ちながらも、生まれたのは、小さな孤独感。

(んだよ、名前のやつ。俺をほったらかしにして、豚となんか話しやがって……)

どこか立ち入れないその空間に、ユーリは扉の隙間から二人をそっと覗いていた。
名前がお皿を洗い、それを受け取った勇利が布巾で拭く。
その二人の表情といい、雰囲気といい、身長差といい、近さといい………。
そのどれもが、ユーリのしゃくに障るものだった。

(なんで楽しそうにしてんだよ)

自分に対しては、いつもどこか少しお姉さんぶるくせに(ユーリが勝手に思っているだけ)、まるで子どものようにぱぁっと笑顔を見せて興味津々に勇利の言葉に耳を傾ける名前の姿。
それが、とても嫌だった。
なんでかは分からないけれど、とてもとても、嫌だった。

(………あぁ、くそ)

結局話の内容も全く分からないまま。

むしゃくしゃする気持ちを抱えながら、そのまま黙ってその場を立ち去った。

「ユリオー、オシャクしてぇー、ねーねー」
……どこかの酔っぱらいの言葉なんて、全く耳に入らなかった。



元は物置だった今の自分と、名前の部屋。
そこでユーリはベッドに転がりながら、さっきの光景を思い出していた。

(何の話してたんだよ、豚の話なんてどうせ面白くないだろ、つーかアイツ誰の女なんだよ、俺のだろ俺の)

今、隣に彼女がいないことに、心底腹が立った。
こんなのただの八つ当たりだ。
だけど、15歳の心には、まだそれが分からなかった。

「ユーリ?」

一人であれこれ考えながらぶすっとしていたら襖が静かに開いた。
目をきょとんとしながらそこにいたのは、さっきまで勇利と皿洗いをしていた名前。
「お風呂まだ入りに行かないの?」と自分に聞いてくる名前が、今は何だか鬱陶しかった。

「勝手だろ」
「…もう、そう言って後回しにしたら、ユーリ寝ちゃうでしょ」

「一緒にいこ?」名前がそう言ってきても、ユーリは無視をした。
また小言。子ども扱い。
いつもはどうも思わないのに、今のユーリにはどれもが腹ただしい。

「……うっせーな。さっきのように豚と呑気に遊んでろ」
「…どうしたの、ユーリ。さっきって?あ、お皿洗いしていたとき?」

何も言わないユーリに、名前はそっと近づく。

「勝生さんね、面白いんだよ。結構色んなこと知っていて、そうなんだーって驚いちゃった」

思い出したかのように笑う名前。
胸の中に、何かが溜まっていくような、そんな感じがした。

「…………あ、そ」
「それに、勝生さんとだったら母国語で話せるから。ちょっと気が抜けるんだよね、何か懐かしい感じがして……」

そしてそれは、あっという間に溢れでていった。

「じゃあ、もう永遠にここにいろよ」

その言葉を発した自分の声は、とてつもなく冷たいものだった。
「……え」と、名前の表情が凍る。
こんなに冷たい目で自分を見るユーリは、初めてだった。

「日本にそのままいろよ。そんで豚とずーっと喋ってればいーじゃねーかよ」
「ユーリ、どうしたの、いきなり……」

す、と自分の手に添えられようとした華奢な名前の手。
それがさっきまで水に晒されていたからなのか、少し冷たいのにさえ、腹が立った。

「触んな」
パシッとその手を払う。
行き場の失った名前の手が宙を彷徨った。
そのまま名前の視線から逃れるようにベッドの上で体を反転させたユーリ。

「………どうして、」

その背中にかけられた小さな声。

「わたし……ユーリと一緒にいたらダメなの…?」

その声は、震えていた。

「……!(ヤベ、言い過ぎた)」

そう思って思わず振り向いても、もう遅かった。

「……ごめん、わたし、何かしたんだよね」

上半身をおこして振り向いた先にいた名前は、笑っていた。
悲しみを押し殺すように、貼り付けたような笑顔。
そんな彼女の表情は、よく見たことのあるものだった。

「………あ、いや、」
「ごめん…っ」

ポロリとそんな彼女からひと粒だけ零れた雫。
それを拭いながら走り去っていた名前を、ユーリは追いかけることができなかった。

―――それは、二人の滅多にない喧嘩だった。
喧嘩というか、自分が勝手に突き放しただけ。
名前の笑いながら泣く、あの表情が頭の中にこびり付いていた。

(いや、ていうか、悪いのは俺なのか……?)

ユーリはただただ、ベッドの上で困惑していた。

(いや、だってさ、アイツが基はと言えば…)

目を閉じて思い出しても、あの光景は鮮明に蘇る。
確かに自分はイラついていた。勇利にも、名前にも。
でも今はそれ以上に、自分に向けられた、あの寂しそうな笑顔が忘れられなかった。

(………う、わ。俺、すっげぇダセーじゃん)

冷静に考えれば、頭が少し冷えたらすぐに分かった。
こんなの、こんな醜い気持ち、ただの嫉妬でしかないってこと。
子ども扱いすんなよ、なんて思ってイラついていた自分は、確かに子どもだったのだ。

挙げ句の果てに、八つ当たりまでして、泣かせてしまった。

名前はきっと怒らない。こんなに勝手なユーリを前にしても、自分から「ごめんね」と言うくらいに。きっとそれが名前だから。

先程彼女を突き飛ばしてしまった己の手のひらを見つめる。

痛い、痛い、痛い。

突き飛ばしてしまったのは自分なのに、何故かその手も、そして胸の奥も、ひどく痛んだ。

(〜〜あー、クソっ)

その痛みを彼女にも与えてしまったのだろうか、自分は。
そう思ったときには、ユーリはもう走り出していた。


あるのは後悔、焦り、そして素直に「謝りたい」という気持ち。
溢してしまいたくない、この手から、決して放してしまいたくない。

(だって、アイツは、名前は、――俺のだ)

自分をこんな気持ちにさせてしまうのも、この世界で、たった一人だけなのだから。


「……名前、」

ゆ〜とぴあからさほど離れていない、静かな海辺にその姿はあった。
膝を丸めて、顔を埋めているその背中を見つけたときに、ユーリの表情は微かに歪んだ。

――小さかったのだ、その背中は。

いつも自分より上に立っていると思っていた。年齢だけではなくて、その振る舞いも、心の余裕さなんかも。

それが、ユーリにとって、とても気に食わなかった。

だけど、そんなのは違った。
彼女は、とても小さかった。儚くて、まるですぐにも壊れてしまいそうだった。
けれどそんな自分を、彼女はきっと、いつもの笑顔に隠すのだ。

――特に、俺の前では。

(……俺、本当にガキじゃん)

ユーリはそう思った。
拳をギリ、と握りしめ、その背中に向かって歩き始める。

自分の着ていた上着を、静かにその背中にかける。
名前ははっとユーリのほうを見上げた。

……ごめん。
それだけを、ユーリは呟いた。彼女がどこかに行ってしまわないか、大きな不安を抱えながら、何度も。

そうすると、名前は笑いながら嬉しそうにこう言うのだ。

「ごめんね、わたしのほうこそ、ごめんね」

その瞳には涙の跡が残ったままで。


ユーリはひたすらに、その背中にすがった。不安は拭えないまま、その華奢な体を抱き締め続けた。


(………今はまだ、こんな顔をさせてしまっているけど)

自分の無力さ、歯痒さなどを胸の中にしまいこんで、ユーリはぎゅっと目を閉じた。



月明かりの下、きっと彼らを見ているのは、広大な海だけだった。






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