笑顔を見せて
(ん…………もう朝か……)
ロシアのとある冬の朝。程よく暖房が効いた部屋の中、体温を含んだ布団の中で、ユーリは意識をゆっくりと覚醒させた。
んーと唸りながら一度瞼をぎゅっと閉じる。
(なんか頭いてぇ……)
微かにジンジンと頭に痛みを感じる。風邪でも引いたのだろうか。シーズン真っ只中の今、風邪など引いてられない身の自分。体調管理は十分に気をつけていた………とは言い難いだろうが。寒気などは感じないからそこまで悪くもないだろう。
(今日練習オフだったか…? やべ、覚えてねぇ…)
ユーリはまだ覚醒しきれていない頭の中、レッスンのスケジュールを思い出そうとする。
遅刻するとヤコフはもちろん、アイツ……名前もうるさくなるから厄介なんだよな、そう考えながらユーリが自身の頭に手を伸ばした時。
(ん?)
そこで初めて、ユーリは自分の違和感に気づいたのだ。
フワリとした頭の感触。なぜかモチモチしたように感じた自分の手。
(……は?)
一度疑問を感じると、奇妙な感触が次々とユーリを襲ってくる。
妙に火照ったように感じる体温。
いつもより軽い体。
(俺のベッドってこんなでかかったけ)
冷や汗が垂れたような、そんな気がする。
バッと起きるが布団は何故か体を覆い尽くしたまま。
頭が混乱したが何とかもがいて、その中から這い出た。
(てか俺、何で四足歩行?)
一つの仮説を頭に浮かべながら、いやまさかそんな、と頭を振る。
それこそが思い違いなのは何となく分かってしまった。けれど、どうしても受け入れ難い。
いつもより速いスピードで駆けていき、姿見の前に自分の姿を映した。
そこでユーリは初めて全てを悟ったのだった。
(はぁ〜〜〜〜?!?!?)
縞模様の体にエメラルドグリーンの瞳はいつもより鋭さを増している。
尖った耳の間に少しだけある毛は心なしかプラチナブランドをしていた。
アメリカンショートヘアの、綺麗な毛並み。
肉球。
ユーリは何故か、猫になっていた。
・
・
・
頭が混乱したまま、何とか今日のスケジュールを確認すると、幸い今日はオフ日だった。
ほっとため息をつくが、状況は何も変わらないまま。
自分のベッドの上で、ユーリ(猫)は丸まりながら唸る。
(いや何だよこれ、夢じゃねーの……ってかどうすればいいんだよ……)
いつも部屋にいる愛猫も、シーズン真っ只中の今は実家にいる。それも不幸中の幸い。
(訳わかんねぇ……てか何でアメリカンショートなんだよ、どうせなら虎とかライオンとか、もっとつえー奴にすればいいのに…)
鏡で自分の姿を見たときも、子猫のような体の小ささに少し腹が立ったのが事実。あの自称コーチ浮かれヴィクトル野郎が「子猫ちゃーん」と笑っているような気がして、頭をブンブンと振った。
うーうー唸ることしかできない今の状況が歯がゆい。しかし、どうしようもないのも事実。
ユーリが悩んでいると、ピーンポーンと呼び出しベルが響いた。
「あれ?ユーリ、いないの?」
(げっ!!名前!)
玄関越しから聞こえるその声に、ユーリはギクリと固まる。
そうだ、オフ日には必ず家にやって来る名前だ。今日も例外でないのだろう。
しかし、今会うのは非常に、ひじょーーにまずい。
(やべっ、隠れる場所隠れる場所………!)
ベッドから飛び降り、ウロウロと辺りを見渡す。とりあえず目に付いた棚と棚との間にその小さな体を滑り込ませた。
ガチャガチャと名前が合鍵を使い玄関を開ける。家主が不在なことに気がついた名前は「あれ?」と首を傾げた。
「可笑しいなぁ……ユーリどっか行くって言ってたかな」
白色のコートとグルグルに巻かれたグレーのマフラーを取りながら、「暖房付けっぱなしだし……」と名前は目を細める。あれは多分呆れている顔だ。
(俺かってこうなりたくてなってねーよ!!)
すぐさま言ってやりたかったが、こんな自分、見られる訳にはいかない。ユーリはひたすら棚の間で息を潜める。
「うーんどうしよう、ユーリ帰ってくる前に片付けだけしちゃおっかな」
そう言って布団の周りに散らかった洗濯物やゴミなどを慣れた手つきで片付けていく名前。口うるさい家主がいないことで、いつもより掃除が捗るのだろうか、少しご機嫌なように見える。鼻歌なんて歌いやがって、とユーリはケッと笑う。
「あれ。こんな服持っていたっけ…」
(あっ!あれは……!)
名前が掃除機をかけていると、タンスの前に一つの服が落ちているのを見つけた。ヒラリそれを取ると、どうやら彼の好きそうなタイガーが書かれた白いシャツのようだ。無造作に置かれたそれは少し皺がよれてしまっている。
(最近見つけた俺のタンスの奥から出てきたクソオシャレなシャツじゃねーか!)
棚の間からワナワナとそれを見るユーリ。やばい、と直感的に思った。何がやばいって、コイツに……名前に見つかったこと。
(やべーよ、あんな服最近着てなかったし、あいつのことだし、)
「こんなの持ってたっけ?着てないなら捨てればいいかな…」
(やっぱりー!!!!)
「うわっ!」
首を傾げている名前がクルクルとそのシャツを丸めようとしたときに、ユーリは思わず彼女に飛びついていた。
「やめろ!」と言ったつもりが、シャーという威嚇音を出していたが。
「えっ?猫……?」
(しまった!!)
ヒラリとその服が地面に落ちていくのを追わずに、名前の視線は小さな猫に釘付けだった。パチクリ、黒い瞳がこちらを覗いてくる。
(いや、これはだな、俺も俺で何だか分からなくて……!)
しどろもどろになりながら伝えようと思っても「にゃ、にゃ」と情けない鳴き声になってしまう。ユーリは今度こそ叫んでしまいたかった。
しかし突然、ふわり、と自分の体が持ち上がった気がしたと思ったら、温かい何かに包まれていた。
柔らかい感覚。ふわり、自然な甘い香りがする。
(っおいおいおいおい………!)
「かわいいーっ!」
ぎゅっとユーリ(猫)を抱きしめる名前。小さくて綺麗な毛並みの猫は彼女の心にドストライクだったのだろう。キャーとハートが付きそうな声で抱きしめてくる。
(やめろーー!!!!!)
突然のことにあわあわと慌てるユーリ。見た目は子猫でも、中はツンデレな思春期の男の子。顔は訳わかんないくらい熱くなるし、頭はこんがらがってショート寸前。それでも柔らかい温もりと感触に、どうにも力は抜けてしまい、すぐに抜け出せなくなってしまう。
「えっ、ユーリの猫かな?こんな子買ってなかったよね?誰かから預かってるのかなぁ……」
(ちっげーよバカ!俺がユーリ・プリセツキーなんだって!!)
「こんにちは!わたし、ユーリのお世話係の苗字名前です!」
(あああこいつバカだ!!)
へへへと笑う名前にユーリは頭を項垂れる。まるでこの状況の可笑しさに気づいていない名前は子猫に夢中になっている。
(あーもー、好きにしてくれ……)
ユーリを抱えながらクルクルと回るように部屋を歩き、名前は「名前なんて言うんですかー?」「何歳かな?」と笑顔で聞いてくる。
その間ユーリは大人しく腕の中にいたままだった(今の状況が美味しいと少しは思ってしまった)。
(はー……。朝から疲れた………)
「ん?眠たいのかな?」
猫は冬が苦手で丸くなっていると聞いたことがある。ユーリもきっと例外ではないのだろう。
朝から精神的にも疲れ、しばらくすると、ユーリは急速に眠気が襲ってくるのが分かった。
そんな子猫(ユーリ)の様子に気づいたのか、名前はフッと笑って、トントンと背中を優しく叩く。
まるで、赤ん坊をあやすかのように。
(ガキ扱いすんじゃねぇよ…)
知っている温もりにひどく安心してしまう。
名前はユーリも見覚えのある表情をしていた。
まるでどこにでもいる母親のような、慈愛に満ち溢れた表情。
記憶の奥底に眠っている、あの日、ユーリが初めて名前という存在に惹かれた日、その日もこんな表情をしていた。
「おやすみ」
だからだろうか。
こんな状況だというのに、不安も吹き飛んでしまうくらいに安心したまま眠れたのは。
・
・
・
(………ふぁ…)
次にユーリが目を覚ました時、すでに日は沈んでいた。
やべっと目を覚ましたが、すぐに今の自分の状況を思い出した。
子猫だからだろうか。こんなにも寝てしまったのは。
ふわりとかけられていた薄手の毛布に、名前の存在を思い出し、ハッと我に返った。
(そうだ名前!さすがに帰ったのか?)
すぐには見当たらない姿にキョロキョロしながら、ユーリは名前を探す。
(っ、さむ……)
ぶるっと寒さを感じた方向に振り向くと、そこはベランダだった。
窓がわずかに空いており、そこから夜の冷たい空気が流れ込んでいた。
ユーリはゆっくりとその場所に近づいていった。
月がきれいだった。
そんな月を見上げながら、彼女――名前はコートを羽織り、柵にもたれかかっていた。
(名前………)
何やってんだ。さみーよ。風邪引くだろ。
いつものように文句を言ってやりたかった。
けれど、言えなかった。
猫の姿になっていたからだけでない。
その瞳が、静かに涙を零していたから。
「………あ、ごめんね、寒かった?」
ふと名前がこちらの存在に気づき、慌てて涙を拭う。にこりと笑ったその表情に、思わず顔を顰めてしまった。
ベランダに出て、「おい」と声をかける。もちろんその声は頼りない鳴き声に変わってしまったのだが。
「………ユーリがね、帰ってこないの」
「………」
「携帯に連絡したけれど、ベッド脇に置いたままだったんだ。ミラとか、コーチとか、誰に聞いても知らないって。こんなの、初めてで……」
「……」
「どこ行ってるのかな。どこか遊びに行ってるのかな……?」
その瞳が再び涙で濡れてくる。思わずその足に寄り添うように頭を添えた。ふわり、名前はユーリを抱き上げる。
「寒くないよね……?辛い思いしてないよね……っ?っ、」
ポロポロと溢れる不安の涙を、ユーリは思わず舌ですくった。
震えながら、猫を抱きしめる名前。
不安でいっぱいいっぱいの彼女に、できることはない。歯がゆかった。
違う。違うんだ名前。
俺はここにいるよ。寒くなんかねーんだよ。だって、お前が今、抱きしめてくれてんだから。
だから安心しろよ。泣くなって……。
伝えたかった。泣いている彼女を抱きしめて、頭を撫でて、安心させてやりたいのに。今の自分には、それができない。
とめどなく涙を流す名前。その涙を、止めてやりたい。ユーリはそう思った。
ぴょんと名前の腕から抜け出し、部屋の中に足を踏み入れる。ユーリは名前
の方に振り向き、「にゃー」と鳴いた。
「え……」
ユーリは名前を見つめながら、じっと待つ。そんな寒いところいないでさっさとこっち来いよ、そんな思いを込めて。
名前がゆっくりと部屋に入り窓を締めるのを確認すると、ユーリはまた誘導するように少し歩き、名前を見て鳴いた。
名前が着いてくるのを確認しながら、寝室へと足を踏み入れる。
「ふふ、また眠たくなっちゃったのかな」
涙を拭い、名前が少し笑ったのを感じながら、ユーリはベッドに飛び乗った。
左側半分、ちょうど人一人分を空けて。そうしてじっと名前を見る。「来いよ」と伝えるために。
「そこ、寝ていいの?」
(早くしろよ!)
いくら猫の姿だと言っても、好きな女を自分のベッドに誘うのは勇気がいること。にゃーと強く鳴く姿を見て、名前は目を丸くした。
「……ユーリ…」
「恥ずかしいだろ、さっさとしろよ!」と耳を真っ赤にして言う彼の姿を、確かに感じたのだ。そんな彼女を見ながら、ぷいっと顔を横に背ける。
「……お邪魔します」
そう言ってユーリ(猫)の横に潜り込む名前。それを確認したユーリは、小さな口で掛け布団の端を噛んで、それを引き上げようとした。
(重たっ!)
「ははは、大丈夫?」
予想以上の重さに固まるユーリに名前は小さく笑い、布団のもう片方の端を掴んだ。それを肩までかけて、横になる。
ふわり、知っている匂いに包まれ、名前は安心したように笑った。
「ありがとう。励ましてくれたんだね」
「……にゃー」
(いらねー心配してんじゃねーよ。何も考えずに、寝ろ)
そう思いながら、ユーリは名前に背を向けるようにゴロンと横になった。しばらくして聞こえてきた寝息と、乾いた涙の跡を見て少しホッとする。
名前に泣かれるのは困る。特に、自分がどうしようもできない時に泣かれるのは。
だけど、そんな名前の涙を止められるのは、やっぱり自分だけなのかもしれない。
なぜなら、名前は自分を思い、いつも泣いてくれているのだから。
どんな姿になっても、止めてやるのは自分の役目なのだから。
(……できるなら泣かせたくねーんだけどな…)
ふーと息をつきながら、ユーリも再び目を閉じた。
明日はきっと、名前の心から笑った顔が見れることを、願いながら。
・
・
・
――次の日の朝、ユーリは慌ただしい様子の名前に叩き起された。
うるうると涙を含ませながらも、名前は笑顔で「おかえりなさい!」と言う。
そんな名前の姿を見たユーリもまた、フッと薄く笑いながら「ただいま」と言うのだった。
(あの不思議な体験は、胸に秘めたままで。)
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