夢の中に面影を探していた。やがては内側だけではなく夢の外側にまで。何度となく夜を越えても同じ場所に留まり続けていることには気が付かないふりをした。気付けないふりをした。
「寝るまでは居てください。寝た後はどこに行ってもいいんで。……あとそれから、朝になって起きるまでには帰ってきてください」
 自分が眠っている間くらいは自由にしてあげたいと思っていた。それが単なるエゴであったとしても。どんな時でもこの場に縛り付けてしまっているのは、きっと息苦しくなってしまうだろうから。いつもと変わらない言葉を告げて。啓悟は薄手の毛布を引き寄せて燈矢に背を向けて壁を向きながら目を閉じた。肌に残る歯形やキスマークは真新しいものから消えかかっているものと様々だ。肌触りの良さで選んだ毛布に顔を埋める。皮膚を撫でる柔らかな質感が心地良い。目を閉じる直前に口にした言葉達は、今しがた寝室を出ていった彼があまり好まない束縛や執着に遠いようで近い言葉であると理解はしている。それでも口にせずにいられないのは、啓悟のほんの少しの反抗心と意地なのかもしれない。目を閉じるその瞬間まで、目を開いたその瞬間にその姿を捉えることが出来るように張った予防線。眠りの底に落ちて世界を遮断している時間のことを考えないようにする為の、啓悟にとっては必要なことでもある。
 やがて、自身に向けられた背中が規則正しく上下し始めたのを確認した燈矢は寝室を出てリビングに向かった。会うのは決まって燈矢が暮らしているアパートの一室だった。駅からは徒歩で約十分、最寄り駅は複数の路線が行き交っており公共交通機関を利用するにも便利だった。電車の他にバス路線も充実している。家族関係が良好とは言えない燈矢は中学では寮生活、高校から一人暮らしを始めている。同じように啓悟も養護施設育ちと周囲とは異なる幼少期を過ごしてきた過去がある。内情は違えど家族にある意味で縛り付けられ、ある意味では自由に育ってきた二人が互いに興味を持つのは自然な流れだったのだろう。初めて顔を合わせたのは燈矢が大学二年、啓悟が大学一年の夏休みだった。それから時間が過ぎるのに比例して二人で過ごす時間も増えて、燈矢が啓悟を抱いたのはその年の冬だった。急激に近付いた距離、それと同時に深みに嵌っていくのを自覚していながらもこの関係が永遠に続く訳はないと考えていた燈矢の胸の内を汲んでいたのだろう、恋人になりたいだとか他の人と二人で会わないでほしいだとか、今まで啓悟の口からそんなことを聞いたことは一度だってなかった。
 キッチンに移動した燈矢は冷蔵庫を開けて缶ビールを片手にリビングに引き返す。静かな室内にプシュッと小気味良い音が響いて、中身を二、三口喉に流してから小さく息をついた。寝室に目を向けて咥内で弾ける炭酸が粘膜を刺激するのを感じながらどうしたものかと瞼を伏せる。こうして二人で過ごした夜は、常に啓悟が先に眠っていた。燈矢が啓悟に触れて溺れるように抱いても、日付が変わった頃には二人を繋いでいた糸はぷつりと途切れる。ふと燈矢がスマートフォンで時刻を確認すると間もなく一時になろうとしていた。燈矢が意識しなくともこうして世界を進んでいく。向けられた彼の笑顔が脳裏に蘇った。強がりと虚勢で塗り固められたその表情をさせているのは、紛れもなく燈矢自身だ。その上側に隠されいる本音も、「おやすみなさい」と布団を被った後も眠ってなんかいないことにも気付いていて、気付かないふりをしているのも甘えているのも燈矢自身だった。
「……馬鹿だなァ」
 誰に言うでもなく呟いてもう一口アルコールを口に含んだ。酒の力を借りないと素直になるきっかけさえも掴めないだなんで我ながら情けなくも感じるが、これくらいは許して欲しい。飲みかけの缶を目の前のローテーブルに置いた燈矢が向かうのは寝室。これまでの二人にとっての時間は二人を引き離すものでしかなかった。両者の間に揺蕩っていた曖昧さを払拭する為に燈矢が静かに薄暗い寝室の扉を開けながら声をかける。
「啓悟くん、起きてるでしょ。……少し話、しよう」
 ほんの僅かに、啓悟の形に膨らんだ毛布が揺れた。
 変わることへの不安や恐れ、変わることから生まれる戸惑いや葛藤。全てをかけて手を伸ばす意味も理由もここにはある。返事はないと理解した上で、燈矢はもう一度彼の名前を唇に寄せた。
「寝たふり、上手になったね。啓悟くん」
 ベッドの端に燈矢が腰を下ろすとスプリングがギシリと音を立てた。啓悟は燈矢に向かって背中を向けたままで起き上がる気配はない。それでも燈矢は構わずに言葉を続ける。息を殺してこちらの様子を窺う啓悟の僅かな気配にも気付いているから。
「はっきりさせたいんだ。俺と啓悟くんのこと」
 その瞬間、あからさまに啓悟の肩が跳ねた。毛布越しに燈矢が軽度の肩を撫でる。燈矢の手が好きだと、啓悟はよく口にしていた。
「啓悟くんのこと、中途半端に考えてた訳じゃない。啓悟くんが何も言わないからそれに甘えてた。……立派な言い訳になっちゃうけど」
 ゆっくりと、一つ一つの言葉を噛み締めながら言葉を紡ぐ。
「信じられないかもしれないけど、啓悟くんのこと好きだよ」
「…………ほんと、ですか」
 聞こえるか聞こえないかのボリュームで毛布の内側から聞こえてきた言葉。それを受けて燈矢がもう一度「好きだよ」と告げれば、肩からずり落ちた毛布の端から琥珀色の瞳が覗いた。
「……嘘じゃなくて?」
「このタイミングで、こんな嘘を言う位のクズではないつもり」
 自分を見上げてくる啓悟の額に唇を落としながら、瞳と同じ色に頭髪に片手を添えて撫で摩る。
「一人で寝なくていいんですか」
「いいよ、一緒に寝るから」
 燈矢が出ていた後の寝室で扉の向こうの気配を探り、それが消えた瞬間には世界に自分だけが取り残された感覚に毎回陥っていた。自分はただ身体を重ねるだけの存在であると、雲のように掴みどころがなく不安定な関係でも離れることが出来ずに縋り付いていた。泣きそうになる程に長かった夜は、目を閉じる度に不安だった。朝になって目が覚めて、空っぽのベッドとひんやりとした室内の空気を感じるだけで虚しさが増した。いつ切れてもおかしくない脆い糸で繋がっていることに気付いてはいたけれど、その糸を決定的に切られてしまうことがどうしようもなく怖かった。
 けれど、もう一人の夜も一人の朝もここには存在しない。確かなぬくもりが手を伸ばすと直ぐに届く距離にある。
「……俺も好きです、燈矢さん」

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